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ファントムタイム仮説
2020.08.15 (Sat) | Category : 都市伝説・陰謀論
■西暦614年から911年までの297年間は後から“水増し”された?概要
ヨーロッパ中世史の一部で水増しと捏造が行われている……。
もし本当なら文字通り歴史を覆す発見ということになるが、ドイツの歴史学者、ヘリベルト・イリグ氏はヨーロッパ中世の西暦614年から911年までの297年間は、後から“水増し”されたものであって、本来存在していないものであると指摘している。
そしてこの説によれば現在はなんと1720年ということになる(※2017年現在)。
この驚くべき説は、ファントム時間仮説(Phantom time hypothesis)と名づけられ、1991年に出版された自著でイリグ氏が提唱している。
ではいったい誰がわざわざそんなことをたくらんで実行に移したというのか?
イリグ氏によれば“犯人”はローマ教皇のシルウェステル2世(950‐1003)、神聖ローマ皇帝・オットー3世(980‐1002)、東ローマ帝国の皇帝・コンスタンティノス7世(905‐959)が西暦の年代数を大幅に加算したというのだ。
しかし年代を改変して、いったい何の得があるというか?
なんとその主な理由は、オットー3世が歴史的に節目となる年である西暦999年と1000年、いわゆる“ミレニアム”の区切りの世に君臨することを意図してのことであると説明している。
つまりオットー3世が“ミレニアムの皇帝”として、後世にも輝かしい栄誉を残したかったからであるというのだ。
とするならば、オットー3世は本来は西暦638年から705年の人物ということになる。
1582年にヨーロッパではユリウス暦から現在の西暦であるグレゴリオス暦に切り替えられ、その年の10日間が切り詰められたという経緯があるのだが、1582年に計算したのであればギャップは13日になるはずであるとイリグ氏は指摘している。
そして1582年が実は297年前の1285年であったとすれば、この10日という修正すべき誤差が導き出されたことの説明がつくということだ。
そしてもちろん、オットー3世はこの年代の改変に際して、あらゆる記録物の年代をつじつまが合うようにプロジェクトチームを結成して書き直させたという。つまりこれはオットー3世の謀略であり、歴史的陰謀論ということだ。
■ニーミエッツ教授「アラブ・東ローマ戦争があった事実を保証する歴史的記録はない」
イリグ氏がそもそもこの突拍子もないアイディアを思いついたのは、西暦614年から911年に作られたといわれる美術品や工芸品の数が少なく、時代を反映するはずの様式面から見ても、かなり“怪しい”点があることがきっかけであったという。そして10世紀のものといわれている時代のローマ建築の数々は、とても1千年以上経っているものには見えないという率直な実感もあるという。
このファントム時間仮説を提唱しているのはイリグ氏だけではない。
ハンス・ウルリッヒ・ニーミエッツ教授は1995年に出版した自著『DidtheEarly Middle Ages Really Exist?』の中で
「ヨーロッパの中世初期は存在しない」
と結論づけている。
「古代(1世紀)とルネッサンス(1500年代)の間に、約300年分の多すぎる年代記が含まれています。言い換えれば、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスは、2000年前の人物ではなく、1700年前の人物なのです」(ハンス・ウルリッヒ・ニーミエッツ教授)
そしてニーミエッツ教授もまた、イリグ氏と同じくユリウス暦からグレゴリオス暦への切り替えにも注目しているということだ。
イリグ氏が主張する“ファントム時間”である西暦614年から911年までの間は、たとえば東ローマ帝国とイスラム王朝勢が戦った「アラブ・東ローマ戦争」(約630‐約1050)があったとされるが、ニーミエッツ教授によればこの戦争があった事実を保証する歴史的記録はないということだ。
そしてもうひとつ、その時代に当てはまるのはローマ教皇の承認のもとで成立したフランク王国のカロリング朝(751‐987)の歴史だが、これもまた架空の大河ドラマのように丸ごと“創作”されたということになるのだろうか。もしそうだとすればあのカール大帝もまたフィクションの人物ということになる。
登場して25年以上が経つ“ファントム時間仮説”だが、発表当初から歴史学のメインストリームではほとんど支持を得られていないようだ。
批判の根拠としては、614年から911年に起こった日食が記録されていて、日付も計算と一致するということである。
しかし、計算できる事象であるということは、後からでも盛り込むことができるかもしれない。
日本では現行の西暦が明治時代に採用されたためこの話題には直接関係しないことになるが、西洋史がもし300年短いものであったとすれば、歴史の理解に大変革がもたらされるだろう。ファントム時間仮説に今後新たな展開があるのか気になるところだ。
引用元:今年は西暦1720年だったことが判明! 驚異の新説「ファントム時間仮説」が暴く“水増しされた”297年間とは!?
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201705_post_13316/
ファントムタイム仮説(ファントムタイムかせつ、ドイツ語: Phantomzeit-Theorie)は、ドイツ人の作家ヘリベルト・イリグが主張する歴史に関する陰謀論である。この説が初めて活字化されたのは1991年である。
神聖ローマ皇帝オットー3世、ローマ教皇シルウェステル2世、あるいは東ローマ皇帝コンスタンティノス7世が主導し、暦による年代記述を遡って偽造することで、西暦1000年という特別な年に自分たちを君臨させ、神聖ローマ帝国に対する皇帝の権力を正当化しようと歴史を書き換えた、というものである[1]。
この陰謀は記録や物証を改変・偽造したり、誤伝することでその目的を達した、とイリグは主張している[2]。
この筋書きに従えば、カール大帝の存在どころかカロリング朝時代は丸ごと偽史であり、中世前期である西暦614年から911年まで297年間の「ファントムタイム」が存在することになる。この説は、基本的に歴史学者からは受け入れられていない。
批判
この説を唱えるうえで最大の障壁となるのが、古代の天文学における観察記録である。
特に(ファントムタイム仮説が歪めている)西暦600年以前にヨーロッパの文献に記述されている日食である。
そのなかにははっきりと仮説を反証するには足りないものもあるが、少なくとも2例は反例となることが確実である。
一つが西暦59年の大プリニウスが記録した日食で[10]、もう一つがフォティオスが西暦418年に記録した日食である[10]。
どちらの日付も日食があったことが学術的に裏付けられている。さらに、中国の唐代における例えばハレー彗星の記録なども現代の天文学と矛盾しておらず、「ファントムタイム」が加算される余地はない[11][12]。
考古学遺物や年輪年代学などによる測定も、「ファントムタイム」を支持せず、その反証となっている[13]。
グレゴリオ暦は、ユリウス暦が制定された紀元前45年の時点から存在していたかのような暦を意図して改訂が行われたわけではない。
むしろ325年が基準になっており、この年にニケーア公会議においてユリウス暦における3月21日を春分とすることで、復活祭の日付が定められた(コンプトゥス)ことが出発点なのである(天文学的には紀元前45年の春分は3月23日前後であった)。
したがってイリグのいう「失われた3世紀」は、紀元前45年のユリウス暦の制定から325年のニケーアの公会議で復活祭の日付が算出されるまでに相当する[14]。
カール大帝とカロリング朝がでっちあげられたものだったら、アングロ・サクソン期のイングランドや歴代の教皇、ビザンツ帝国といったヨーロッパのあらゆる歴史も同時にでっちあげられていることになる。
また「ファントムタイム」は、ムハンマドの生涯や西ゴート王国などかつてローマ帝国だったエリアへのイスラムの拡大までも時代として含んでいることになるが、そういった歴史もまた捏造されていたり、大幅に年代が異なることになってしまう。イスラム勢力は、タラス河畔の戦いなどで中国の唐とも接触があったが、そういった歴史とも整合性をとらなければならない[12][15]。
ヘリベルト・イリグ
イリグは1947年、バイエルン州のフォーエンシュトラウスに生まれた。
イマヌエル・ヴェリコフスキーの終末主義や歴史の再解釈に夢中だったこともあり、「人類史および自然史の再構築協会」(Gesellschaft zur Rekonstruktion der Menschheits und Naturgeschicht)の熱心な会員であった。1989年から1994年には、雑誌『先史-初期-現在』(Vorzeit-Frühzeit-Gegenwart)の編集者として活動していた。1995年以降は、自らマンティス出版社を経営し、作家としてまた出版人として、雑誌『時間の跳躍』(Zeitensprünge)を発行した。年代学の修正にかかわる仕事以外でいえば、彼は哲学者のエゴン・フリーデルの編集人でもある。
中世初期に取り組み始める以前のイリグは、先史時代や古代エジプトの年代についてさまざまな修正案を発表していた。1990年代には彼のさまざまな思い付きがドイツ国内の一般メディアから取りあげられ、非常に有名になった。
1996年の『でっちあげの中世』(Das erfundene Mittelalter)は学術的な校訂を経ていたものの、歴史学者たちからはその根本的な誤りを指摘され、まったく受け入れられなかった[3]。
1997年には「倫理学と社会科学」誌が、イリグの説に対する批判的検討の場を設け、誌上で歴史学者達によりさまざまな角度から批評された[4]。
これ以降、イリグの思い付きについて学術的な検討が加えられることはほとんどなくなったが、ドイツの一般メディアではその後もよく扱われる偽史となった[5]。
イリグは少なくとも2013年まではこの「ファントムタイム仮説」に関する著述を続けている。
また2013年にはこれまで無縁だった美術史にも手を伸ばしており、ドイツ・ルネサンス期の巨匠であるアントン・ピルグラムについて書いているが、そこでもやはり従来の年代学の修正を試み、マニエリスムという美術のジャンルの歴史を抹殺しようとしている[6]。
引用元:ファントムタイム仮説
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファントムタイム仮設
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