都市伝説・・・奇憚・・・blog
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ギロチン刑
2009.11.18 (Wed) | Category : トピックス
905 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/12/09 02:03
中世のヨーロッパに、とある医者がいました。
彼は人体の仕組みを調べようとして、法律スレスレの事までやっていたそうです。
しかしある時、好奇心に負けてとうとう法に触れることまでやってしまいました。
それは政府のしるところとなり、彼はギロチン刑を宣告されました。
そして執行日。彼は友人にこんな話をしました。
「人間は首を切られたら死ぬ。だが、すぐ死ぬわけじゃない。ギロチンで落とされた首が 生きていたとか、口をきいたという噂もある。そこでだ、私の首が切られたら、それをよく見ていてほしい。もし首を切られても意識があれば、私は3回ウィンクをするから」
そしてギロチン刑は執行されました。
さて、首だけになった彼には意識があったのでしょうか。
彼の最期を見届けた友人によると、「1回だけウィンクをした」ということですが・・・
936 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/12/11 05:39
>>935で思い出した。むかーし何かの本で読んだ、敵に捕まった上官&数人の兵隊の話。
即、斬首刑が決まった。捕虜になった上官は部下の命乞いをした。
「私は殺されてもいい。だが、首を切られた後、私は自分の首を持って部下たちの前を走りぬける。走りぬけられただけの人数は助けて欲しい」
願いは受け入れられ、部下たちは横一列に並ばされた。
斬首された上官は自らの首を持ち、部下全員の前を駆け抜け、部下たちは開放された。
↑これは外国の話だけど、随分長いね、意識。
日本の話だと、こういうのがある。
ある侍が打ち首に決まった。
縄を打たれ、首切り役が横に控えているというのに、侍は、ここまで追い込んだ相手に呪詛の言葉をはき続けている。
当の相手は侍の目の前で涼しい顔。
「それほど御前の恨みがまことなら、首を飛ばされた時に、あの石に噛り付いてみせよ。それを証とする」
指指す先(10メートル程)の石を睨みつけた侍はそれを受けた。
果たして、切られた瞬間に飛んで恐ろしい形相で石に齧り付いた侍の首に恐れを抱いた者たちは、
「何故あのようなことを仰った?恨みが本当になり、災いが降りかかったら何とします?」
と、不安げに問いただす。
「あの男の恨みの気持ちは本物だった。そのまま打ち首にしていたら確かに災いが降りかかったであろう。だが、切られる時にあの男”石に齧りつく”事だけに気持ちを込めていた。よって、災いをなす事に振り向ける力はもはや残っておらぬだろう」
結果、その通りになった。
という話。こっちは短そう。意識が、というより一念の強さの話になっちゃったね。
938 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/12/11 11:25
俺もそーゆー話を聞いた。
だけど俺は、3秒くらいしか意識が無い、と聞いた。
↓はその話ね。
時は19世紀のヨーロッパ、数々の犯罪を犯した男が捕まった。
その男は確かに数々の犯罪を犯していたし、その中には、聞いてしまったら吐き気をもよおすのもある。
だが、その男には病気の妻と子供達がおり、しかも、自分自身も仕事が出来ないような病弱な体だった。
だから犯罪に走るのも仕方なかったかもしれない。
しかし、だからと言ってそんな理由で罪は軽くならない。少なくとも当時はそうだった。
そして、無情にも彼は、ギロチンの判決を下された。
だが、そんな時、ある科学者が哀れな男に取り引きを持ち掛けた。
内容は、
「私は今、果たして人間が首だけでどれだけ生きられるのかが知りたい。キミがギロチンに架けられ、首だけになったら、私の質問に答えて欲しい。もし喋られなかったら、「YESが瞬き一回」、「NOが瞬き二回」で反応してくれ」
と言う物だった。そして条件は
「その後のキミの家族の生活を保証しよう」
と言う事。
彼はどうせ自分は死ぬ身、その後の家族が安泰なら、そんな事はお安い御用だ。
と、その取り引きを受け取った。
そしてその後、刑は執行された。
ストン、と言う軽快な音と共に、彼の首は飛んだ。辺りに血が模様を描く。
そして科学者は、すぐさま彼に――正確には彼の首に近寄って質問した。
「意識はあるか……?」
瞬き一回。
誰かが悲鳴を上げた。
だが彼は構わず質問を続ける。
「痛いのか?」
瞬き二回。そして最後の質問。
「目は見えるのか?」
だが、もう彼は反応しなかった。
中世のヨーロッパに、とある医者がいました。
彼は人体の仕組みを調べようとして、法律スレスレの事までやっていたそうです。
しかしある時、好奇心に負けてとうとう法に触れることまでやってしまいました。
それは政府のしるところとなり、彼はギロチン刑を宣告されました。
そして執行日。彼は友人にこんな話をしました。
「人間は首を切られたら死ぬ。だが、すぐ死ぬわけじゃない。ギロチンで落とされた首が 生きていたとか、口をきいたという噂もある。そこでだ、私の首が切られたら、それをよく見ていてほしい。もし首を切られても意識があれば、私は3回ウィンクをするから」
そしてギロチン刑は執行されました。
さて、首だけになった彼には意識があったのでしょうか。
彼の最期を見届けた友人によると、「1回だけウィンクをした」ということですが・・・
936 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/12/11 05:39
>>935で思い出した。むかーし何かの本で読んだ、敵に捕まった上官&数人の兵隊の話。
即、斬首刑が決まった。捕虜になった上官は部下の命乞いをした。
「私は殺されてもいい。だが、首を切られた後、私は自分の首を持って部下たちの前を走りぬける。走りぬけられただけの人数は助けて欲しい」
願いは受け入れられ、部下たちは横一列に並ばされた。
斬首された上官は自らの首を持ち、部下全員の前を駆け抜け、部下たちは開放された。
↑これは外国の話だけど、随分長いね、意識。
日本の話だと、こういうのがある。
ある侍が打ち首に決まった。
縄を打たれ、首切り役が横に控えているというのに、侍は、ここまで追い込んだ相手に呪詛の言葉をはき続けている。
当の相手は侍の目の前で涼しい顔。
「それほど御前の恨みがまことなら、首を飛ばされた時に、あの石に噛り付いてみせよ。それを証とする」
指指す先(10メートル程)の石を睨みつけた侍はそれを受けた。
果たして、切られた瞬間に飛んで恐ろしい形相で石に齧り付いた侍の首に恐れを抱いた者たちは、
「何故あのようなことを仰った?恨みが本当になり、災いが降りかかったら何とします?」
と、不安げに問いただす。
「あの男の恨みの気持ちは本物だった。そのまま打ち首にしていたら確かに災いが降りかかったであろう。だが、切られる時にあの男”石に齧りつく”事だけに気持ちを込めていた。よって、災いをなす事に振り向ける力はもはや残っておらぬだろう」
結果、その通りになった。
という話。こっちは短そう。意識が、というより一念の強さの話になっちゃったね。
938 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:02/12/11 11:25
俺もそーゆー話を聞いた。
だけど俺は、3秒くらいしか意識が無い、と聞いた。
↓はその話ね。
時は19世紀のヨーロッパ、数々の犯罪を犯した男が捕まった。
その男は確かに数々の犯罪を犯していたし、その中には、聞いてしまったら吐き気をもよおすのもある。
だが、その男には病気の妻と子供達がおり、しかも、自分自身も仕事が出来ないような病弱な体だった。
だから犯罪に走るのも仕方なかったかもしれない。
しかし、だからと言ってそんな理由で罪は軽くならない。少なくとも当時はそうだった。
そして、無情にも彼は、ギロチンの判決を下された。
だが、そんな時、ある科学者が哀れな男に取り引きを持ち掛けた。
内容は、
「私は今、果たして人間が首だけでどれだけ生きられるのかが知りたい。キミがギロチンに架けられ、首だけになったら、私の質問に答えて欲しい。もし喋られなかったら、「YESが瞬き一回」、「NOが瞬き二回」で反応してくれ」
と言う物だった。そして条件は
「その後のキミの家族の生活を保証しよう」
と言う事。
彼はどうせ自分は死ぬ身、その後の家族が安泰なら、そんな事はお安い御用だ。
と、その取り引きを受け取った。
そしてその後、刑は執行された。
ストン、と言う軽快な音と共に、彼の首は飛んだ。辺りに血が模様を描く。
そして科学者は、すぐさま彼に――正確には彼の首に近寄って質問した。
「意識はあるか……?」
瞬き一回。
誰かが悲鳴を上げた。
だが彼は構わず質問を続ける。
「痛いのか?」
瞬き二回。そして最後の質問。
「目は見えるのか?」
だが、もう彼は反応しなかった。
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無事湖の祟り
2009.11.06 (Fri) | Category : トピックス
東京都世田谷区の京王電鉄・明大前駅。
京王本線と京王井の頭線の乗換駅となっているため、通勤・通学の要として利用されている駅だ。
そんな明大前駅構内に以前、“湖”があったことをご存じだろうか。
その名は「無事湖(むじこ)」。京王電鉄の「無事故」を祈願して命名されたものとみられ、実際は湖と呼ぶにはほど遠い二畳程度の大きさの人工池だった。
それが平成18年の駅ビル開発に伴い、取り壊されてしまった。以来、「事故が増えた」と不吉なうわさが流れているというのだが…。
(参考:【都市伝説を追う】「無事湖」のたたりが京王電鉄の事故を呼ぶ?)
京王本線と京王井の頭線の乗換駅となっているため、通勤・通学の要として利用されている駅だ。
そんな明大前駅構内に以前、“湖”があったことをご存じだろうか。
その名は「無事湖(むじこ)」。京王電鉄の「無事故」を祈願して命名されたものとみられ、実際は湖と呼ぶにはほど遠い二畳程度の大きさの人工池だった。
それが平成18年の駅ビル開発に伴い、取り壊されてしまった。以来、「事故が増えた」と不吉なうわさが流れているというのだが…。
(参考:【都市伝説を追う】「無事湖」のたたりが京王電鉄の事故を呼ぶ?)
都市伝説の終焉―すかいらーく―
2009.10.19 (Mon) | Category : トピックス
以前紹介した記事に『すかいらーく伝説』がある。
看板のオスメスに関する噂でコーヒーサービス、というものだったのだが。
記事中で『現在では看板のマイナーチェンジをしたために』この都市伝説も消滅した、と書いたのだが…
もっと根本的なところで話は消えてしまうことになった。
少々残念ではある。
以下、引用
- - - - -
創業業態「すかいらーく」消滅へ 業界の注目が集まる次の嫁ぎ先
ダイヤモンド・オンライン10月19日(月) 10時 1分配信 / 経済 - 経済総合
外食業界の一つの時代が終わる。
投資会社の野村プリンシパル・ファイナンス(PF)傘下で経営再建中のすかいらーくは10月末までに、昨年来行なってきた創業ブランド「すかいらーく」の「ガスト」などへの転換を終了する。ついに日本から「すかいらーく」の看板が消える。
1970年、「すかいらーく」は創業家の横川4兄弟がつくった日本初のファミリーレストランだ。今では当たり前となっているセットメニューやチェーン展開するための店舗運営ノウハウ、郊外型の店舗展開などの多くは、「すかいらーく」が率先して取り入れ、原型をつくり上げた。今ある外食企業のほとんどは、同社の手法をまねて成長を遂げていったといっても過言ではない。
しかし2006年度に、過去に大量出店した店舗の老朽化や業態の陳腐化などから客離れが進み、最終赤字に転落。同年、経営再建のために野村PF傘下となった。08年にはその野村PFによって、業績不振を理由に創業家の3男である横川竟社長が解任され、野村PF主導で一気に店舗リストラが進められた。「すかいらーく」の看板が姿を消すことは「外食業界での歴史的役割が終わったということ」(大手外食企業幹部)だといえる。
財務と店舗のリストラという“外科手術”が終わり、すかいらーくの経営再建はひと区切りつくことになる。次の段階は“リハビリ”だ。ただ、“リハビリ”は、「メニュー開発や業態開発、店舗オペレーションの再構築など、外食業に精通しているプロ中のプロでなければできない。すかいらーくに対して野村ができることはここまでだ」(同)。
野村PFが早々にエグジット(保有株式の売却)する可能性は高い。この点について「今年中に具体化することはない。来年春くらいになるのではないか」(野村PF関係者)とささやかれているが、すでに大手外食企業や商社など複数社に野村PFは接触している。
実際、“手術後”のすかいらーくは業界他社にとって魅力的に映るはずだ。
今後の同社の主力業態となる「ガスト」は08年度下期(7~12月)から2半期連続で既存店売上高が前年を上回った。ファミレス御三家のうちの「デニーズ」と「ロイヤルホスト」が09年度上半期、同7~9%マイナスで推移していることからすれば、上出来の数字だ。「2社が回復する気配すらないなかで浮上したのは驚きだ。落ち込んでも立ち直る底力がある」と市場関係者も注目する。
また「すかいらーくの工場は日本でもトップクラス。他社にはない技術とノウハウが蓄積されている」(大手外食企業幹部)。
今でもすかいらーくグループの売上高は381億円を誇る。どこへ嫁ぐにも、外食業界の勢力図を大きく塗り替えることになる。
(『週刊ダイヤモンド』編集部 片田江康男)
看板のオスメスに関する噂でコーヒーサービス、というものだったのだが。
記事中で『現在では看板のマイナーチェンジをしたために』この都市伝説も消滅した、と書いたのだが…
もっと根本的なところで話は消えてしまうことになった。
少々残念ではある。
以下、引用
- - - - -
創業業態「すかいらーく」消滅へ 業界の注目が集まる次の嫁ぎ先
ダイヤモンド・オンライン10月19日(月) 10時 1分配信 / 経済 - 経済総合
外食業界の一つの時代が終わる。
投資会社の野村プリンシパル・ファイナンス(PF)傘下で経営再建中のすかいらーくは10月末までに、昨年来行なってきた創業ブランド「すかいらーく」の「ガスト」などへの転換を終了する。ついに日本から「すかいらーく」の看板が消える。
1970年、「すかいらーく」は創業家の横川4兄弟がつくった日本初のファミリーレストランだ。今では当たり前となっているセットメニューやチェーン展開するための店舗運営ノウハウ、郊外型の店舗展開などの多くは、「すかいらーく」が率先して取り入れ、原型をつくり上げた。今ある外食企業のほとんどは、同社の手法をまねて成長を遂げていったといっても過言ではない。
しかし2006年度に、過去に大量出店した店舗の老朽化や業態の陳腐化などから客離れが進み、最終赤字に転落。同年、経営再建のために野村PF傘下となった。08年にはその野村PFによって、業績不振を理由に創業家の3男である横川竟社長が解任され、野村PF主導で一気に店舗リストラが進められた。「すかいらーく」の看板が姿を消すことは「外食業界での歴史的役割が終わったということ」(大手外食企業幹部)だといえる。
財務と店舗のリストラという“外科手術”が終わり、すかいらーくの経営再建はひと区切りつくことになる。次の段階は“リハビリ”だ。ただ、“リハビリ”は、「メニュー開発や業態開発、店舗オペレーションの再構築など、外食業に精通しているプロ中のプロでなければできない。すかいらーくに対して野村ができることはここまでだ」(同)。
野村PFが早々にエグジット(保有株式の売却)する可能性は高い。この点について「今年中に具体化することはない。来年春くらいになるのではないか」(野村PF関係者)とささやかれているが、すでに大手外食企業や商社など複数社に野村PFは接触している。
実際、“手術後”のすかいらーくは業界他社にとって魅力的に映るはずだ。
今後の同社の主力業態となる「ガスト」は08年度下期(7~12月)から2半期連続で既存店売上高が前年を上回った。ファミレス御三家のうちの「デニーズ」と「ロイヤルホスト」が09年度上半期、同7~9%マイナスで推移していることからすれば、上出来の数字だ。「2社が回復する気配すらないなかで浮上したのは驚きだ。落ち込んでも立ち直る底力がある」と市場関係者も注目する。
また「すかいらーくの工場は日本でもトップクラス。他社にはない技術とノウハウが蓄積されている」(大手外食企業幹部)。
今でもすかいらーくグループの売上高は381億円を誇る。どこへ嫁ぐにも、外食業界の勢力図を大きく塗り替えることになる。
(『週刊ダイヤモンド』編集部 片田江康男)
メアリー・セレスト号事件
2009.09.08 (Tue) | Category : トピックス
メアリー・セレスト号(英: Mary Celeste)は、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もあるが、事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化している。
なお、コナン・ドイルはメアリー・セレスト(Mary Celeste)号にまつわる一連の事件をもとに1884年『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という小説を書いているが、ここでは船名が「マリー・セレスト(Marie Celeste)号」となっているため、実際には『マリー・セレスト号』という船名の方が有名かもしれない。
最も有名な例は次のようなものである。
『メアリー・セレスト号を発見したデイ・グラチア号の船員が乗り移ってみると、船内には食べかけの朝食がまだ暖かいまま残っており、ほんの一瞬前まで全員が何事もなく乗船していたようであった』
実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査でそのような事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマである。
救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられているが、これも後に創作されたものであり、実際には救命ボートはなくなっていた。
現在判明している真相は下記の通りである。
1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号はニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコール(おそらくメタノール)を積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航した。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていた。
1872年12月4日(19世紀には標準時の制定前であるため、12月5日であったともいわれる)、メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号(Dei Gratia)に発見された。
デイ・グラチア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズ船長と知り合いだった。デイ・グラチア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレスト号を観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断した。
実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリバー・デボーは小さなボート数隻を率い、メアリー・セレスト号に向かった。デボーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。ボンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたという。船は他の点では良好な状態であるように思われたが誰も乗っていなかった。
前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていた。六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった。3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。
1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6ヶ月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置である。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もあるが、事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化している。
なお、コナン・ドイルはメアリー・セレスト(Mary Celeste)号にまつわる一連の事件をもとに1884年『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という小説を書いているが、ここでは船名が「マリー・セレスト(Marie Celeste)号」となっているため、実際には『マリー・セレスト号』という船名の方が有名かもしれない。
最も有名な例は次のようなものである。
『メアリー・セレスト号を発見したデイ・グラチア号の船員が乗り移ってみると、船内には食べかけの朝食がまだ暖かいまま残っており、ほんの一瞬前まで全員が何事もなく乗船していたようであった』
実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査でそのような事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマである。
救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられているが、これも後に創作されたものであり、実際には救命ボートはなくなっていた。
現在判明している真相は下記の通りである。
1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号はニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコール(おそらくメタノール)を積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航した。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていた。
1872年12月4日(19世紀には標準時の制定前であるため、12月5日であったともいわれる)、メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号(Dei Gratia)に発見された。
デイ・グラチア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズ船長と知り合いだった。デイ・グラチア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレスト号を観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断した。
実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリバー・デボーは小さなボート数隻を率い、メアリー・セレスト号に向かった。デボーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。ボンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたという。船は他の点では良好な状態であるように思われたが誰も乗っていなかった。
前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていた。六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった。3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。
1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6ヶ月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置である。
加茂前ゆきちゃん行方不明事件
2009.09.03 (Thu) | Category : トピックス
【事件概要】
1991年3月15日、三重県四日市市富田在住の加茂前芳行さんの三女・ゆきちゃん(当時8歳)が、この日の夕方、自宅から突然姿を消した。
――――――――
【ココアを残して消えた少女】
板金工場で夜勤をしていた芳行さんはいつも夕方6時に家を出て翌朝帰宅する生活、妻の市子さんも当時パートに出ていた。当時小学2年生のゆきちゃんはこの日、午後2時頃に友達と別れ、家に帰ってきた。芳行さんがぐっすり眠っている時間である。普段からゆきちゃんは父親を起こさないように、家に帰ると物音をたてなかったので芳行さんは帰宅にきづかなかった。
午後2時半には市子さんがパート先から自宅に電話を入れ、この時ゆきちゃんが電話に出ている。その後、小学6年生の次女が帰ってきたとき、ゆきちゃんの姿はなく、テーブルに上にはまだ暖かいココアが残されていた。ゆきちゃんはココアが好きで、よく自分で作って飲んでいたという。
午後4時頃、芳行さんが起きてきたが、ゆきちゃんがいないことにはさして気に留めなかった。いつも帰宅してから友達と待ち合わせて、遊びに行くことが多かったからだ。やがて長女や市子さんも帰宅してくるが、ゆきちゃんは夜になっても戻ってこなかった。午後8時には警察に連絡し、家族や小学校の教師らと捜索したが見つからなかった。
家の中を見ても、不審な点が多かった。
・遊びに行く時、いつも乗っていた自転車が家に置きっぱなしになっていたこと。
・ゆきちゃんが温めたと思われるココアがそのままだったこと。
・当時まだ寒く、ゆきちゃんがいつも着ていたピンク色のジャンパーも家に置かれていたこと、などである。
また、ゆきちゃんはこの日、友人の遊びの誘いをなぜか断っている。他に何か用事があったのだろうか。
その後、目撃証言が多数よせられた。
・学校のジャングルジムで遊んでいた。
・学校の横の十四川付近で遊んでいた。
・自宅から15mほどの地点で、白いライトバンの運転手と話していた。
・学校の近くの近鉄・富田駅にいた。
この中で一番多かった目撃証言は富田駅近くにいたというものである。しかし、それらは有力な手がかりにはならなかった。
【怪文書】
ゆきちゃんの家族はその後も、情報提供を願うビラや看板を作ったり、TV出演して事件の手がかりを待った。自宅では電話に逆探知装置をとりつけて待ったが、脅迫電話はなかった。そのかわり、無言電話が頻繁にくるようになった。
事件から3年後、「加茂前秀行様」という間違った宛名(実際は芳行さん)で、一家に怪文書が届く。非常に不気味な文書だったが、詳しい内容はよくわからなかった。→怪文書の内容
それからしばらくして、一家にもう1通の手紙が届けられた。ダウジング(※)ができるという人物からの捜査協力の申し出である。福岡県に住む「緒方達生」というこの差出人は、ゆきちゃんはすでに亡くなっていると言い、ゆきちゃんの霊の協力の元、捜査をするという。さらに3日後、この人物は「ゆきちゃんの霊を邪魔する別の霊が現れ、捜査に協力することができなくなった」と書いてきた。以来、不審な手紙はない。
2003年10月、一家に不審な電話がかかる。若い男の声で自分の体格や髪型などの特徴を述べた。この中で「自分の髪型はパンチパーマ」という発言があったのだが、パンチパーマの男というのは失踪当時の目撃情報で出てきた白いライトバンの運転手の特徴だった。この特徴というのは関係者にしか知らされていなかった。
事件から10年以上がたち、今だにゆきちゃん発見につながる有力な情報は届けられていない。
リンク
三重県警 「情報提供のお願い」
http://www.police.pref.mie.jp/onegai/search/02_yuki.html
オレンジの旅人。
http://tabikaze.hp.infoseek.co.jp/kagerou.htm
≪参考文献≫
新潮社 「新潮45 08年2月号」
二見書房 「公開捜査 消えた子供たちを捜して!」 近藤昭二
以上、加茂前ゆきちゃん行方不明事件より引用
1991年3月15日、三重県四日市市富田在住の加茂前芳行さんの三女・ゆきちゃん(当時8歳)が、この日の夕方、自宅から突然姿を消した。
――――――――
【ココアを残して消えた少女】
板金工場で夜勤をしていた芳行さんはいつも夕方6時に家を出て翌朝帰宅する生活、妻の市子さんも当時パートに出ていた。当時小学2年生のゆきちゃんはこの日、午後2時頃に友達と別れ、家に帰ってきた。芳行さんがぐっすり眠っている時間である。普段からゆきちゃんは父親を起こさないように、家に帰ると物音をたてなかったので芳行さんは帰宅にきづかなかった。
午後2時半には市子さんがパート先から自宅に電話を入れ、この時ゆきちゃんが電話に出ている。その後、小学6年生の次女が帰ってきたとき、ゆきちゃんの姿はなく、テーブルに上にはまだ暖かいココアが残されていた。ゆきちゃんはココアが好きで、よく自分で作って飲んでいたという。
午後4時頃、芳行さんが起きてきたが、ゆきちゃんがいないことにはさして気に留めなかった。いつも帰宅してから友達と待ち合わせて、遊びに行くことが多かったからだ。やがて長女や市子さんも帰宅してくるが、ゆきちゃんは夜になっても戻ってこなかった。午後8時には警察に連絡し、家族や小学校の教師らと捜索したが見つからなかった。
家の中を見ても、不審な点が多かった。
・遊びに行く時、いつも乗っていた自転車が家に置きっぱなしになっていたこと。
・ゆきちゃんが温めたと思われるココアがそのままだったこと。
・当時まだ寒く、ゆきちゃんがいつも着ていたピンク色のジャンパーも家に置かれていたこと、などである。
また、ゆきちゃんはこの日、友人の遊びの誘いをなぜか断っている。他に何か用事があったのだろうか。
その後、目撃証言が多数よせられた。
・学校のジャングルジムで遊んでいた。
・学校の横の十四川付近で遊んでいた。
・自宅から15mほどの地点で、白いライトバンの運転手と話していた。
・学校の近くの近鉄・富田駅にいた。
この中で一番多かった目撃証言は富田駅近くにいたというものである。しかし、それらは有力な手がかりにはならなかった。
【怪文書】
ゆきちゃんの家族はその後も、情報提供を願うビラや看板を作ったり、TV出演して事件の手がかりを待った。自宅では電話に逆探知装置をとりつけて待ったが、脅迫電話はなかった。そのかわり、無言電話が頻繁にくるようになった。
事件から3年後、「加茂前秀行様」という間違った宛名(実際は芳行さん)で、一家に怪文書が届く。非常に不気味な文書だったが、詳しい内容はよくわからなかった。→怪文書の内容
それからしばらくして、一家にもう1通の手紙が届けられた。ダウジング(※)ができるという人物からの捜査協力の申し出である。福岡県に住む「緒方達生」というこの差出人は、ゆきちゃんはすでに亡くなっていると言い、ゆきちゃんの霊の協力の元、捜査をするという。さらに3日後、この人物は「ゆきちゃんの霊を邪魔する別の霊が現れ、捜査に協力することができなくなった」と書いてきた。以来、不審な手紙はない。
2003年10月、一家に不審な電話がかかる。若い男の声で自分の体格や髪型などの特徴を述べた。この中で「自分の髪型はパンチパーマ」という発言があったのだが、パンチパーマの男というのは失踪当時の目撃情報で出てきた白いライトバンの運転手の特徴だった。この特徴というのは関係者にしか知らされていなかった。
事件から10年以上がたち、今だにゆきちゃん発見につながる有力な情報は届けられていない。
リンク
三重県警 「情報提供のお願い」
http://www.police.pref.mie.jp/onegai/search/02_yuki.html
オレンジの旅人。
http://tabikaze.hp.infoseek.co.jp/kagerou.htm
≪参考文献≫
新潮社 「新潮45 08年2月号」
二見書房 「公開捜査 消えた子供たちを捜して!」 近藤昭二
以上、加茂前ゆきちゃん行方不明事件より引用
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