都市伝説・・・奇憚・・・blog
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一緒に成仏
2009.04.28 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
おまじない
2009.04.22 (Wed) | Category : 誰も信じない人へ
それは 私がまだ小学生だった時のこと。
明日はいよいよ学年マラソン大会。
鈍足でヘタレな私は、本気で
「明日突然風邪を引けよ自分!」
と思いながら布団に入った。
布団に入って暫くすると、金縛りにあった。
目を閉じているのに部屋の中が見える。
足元を見ると、白い人影のようなモヤが 私の足をさすりながらなにやら呪文のような物を唱えている。
最初は心臓バクバクで(ノ゚Д゚;)ノヒィってな感じだったけどその内 この白いモヤは、死んだばぁちゃんだと思った。
明日のマラソン大会の為に、私の足にオマジナイをしてくれているんだと思った。
次の日のマラソン大会では、みごとビリ!
完走した事が唯一の救い。
『ばぁちゃん ダメダメじゃん。』
と子供心に現実の厳しさを実感した。
下校時も、マラソン大会の疲労とビリの汚名を引きずり、仲の良かった友達に完走できて良かったと励まされながらの下校となった。
私の横で友達が、一生懸命励ましてくれていたが、私の心の中では
『私がお母さんに反抗的だから、ばあちゃんが仕返しにきたのか?』
などと思っていた。
その時私は交通事故に遭った。
わき道から出た時に、走って来た車が 私の膝にぶつかった。
バーンというもの凄い音に、近所の人たちも家から出てきた。
友達は、後ろで肩をすぼめて震えている。
車の運転手は、直ぐに車から降りてきて病院に連れて行くという。
だけど…私に怪我は無かった。
骨にヒビが入っているかもしれないから、一度病院で見てもらった方がいいと回りの大人たちも騒いでいたけど、私はそのまま歩いて帰った。
それから数年が経ち バイクで事故った時も救急隊員や医者は、膝の皿が割れていると思う程の怪我をしたが、骨には異常は無かったので、2週間程で退院した。
どうやら…
ばあちゃんは、骨が折れないように。大事にならないようにとおまじないをかけてくれたのかもしれない。
そう思えるようになったのは、自分が人の親になってからだった。
見た目綺麗な足ではないけど、早く走れる足ではないけど、丈夫な足をありがとう。
ばぁちゃん&お母さん。
明日はいよいよ学年マラソン大会。
鈍足でヘタレな私は、本気で
「明日突然風邪を引けよ自分!」
と思いながら布団に入った。
布団に入って暫くすると、金縛りにあった。
目を閉じているのに部屋の中が見える。
足元を見ると、白い人影のようなモヤが 私の足をさすりながらなにやら呪文のような物を唱えている。
最初は心臓バクバクで(ノ゚Д゚;)ノヒィってな感じだったけどその内 この白いモヤは、死んだばぁちゃんだと思った。
明日のマラソン大会の為に、私の足にオマジナイをしてくれているんだと思った。
次の日のマラソン大会では、みごとビリ!
完走した事が唯一の救い。
『ばぁちゃん ダメダメじゃん。』
と子供心に現実の厳しさを実感した。
下校時も、マラソン大会の疲労とビリの汚名を引きずり、仲の良かった友達に完走できて良かったと励まされながらの下校となった。
私の横で友達が、一生懸命励ましてくれていたが、私の心の中では
『私がお母さんに反抗的だから、ばあちゃんが仕返しにきたのか?』
などと思っていた。
その時私は交通事故に遭った。
わき道から出た時に、走って来た車が 私の膝にぶつかった。
バーンというもの凄い音に、近所の人たちも家から出てきた。
友達は、後ろで肩をすぼめて震えている。
車の運転手は、直ぐに車から降りてきて病院に連れて行くという。
だけど…私に怪我は無かった。
骨にヒビが入っているかもしれないから、一度病院で見てもらった方がいいと回りの大人たちも騒いでいたけど、私はそのまま歩いて帰った。
それから数年が経ち バイクで事故った時も救急隊員や医者は、膝の皿が割れていると思う程の怪我をしたが、骨には異常は無かったので、2週間程で退院した。
どうやら…
ばあちゃんは、骨が折れないように。大事にならないようにとおまじないをかけてくれたのかもしれない。
そう思えるようになったのは、自分が人の親になってからだった。
見た目綺麗な足ではないけど、早く走れる足ではないけど、丈夫な足をありがとう。
ばぁちゃん&お母さん。
おじいちゃんとおばあちゃん
2009.04.21 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
私のおじいちゃんとおばあちゃんの話。
おばあちゃんちにこの間泊まったら、してくれた話。
方言が激しいから、言った言葉は標準語で書きます。
お祖母ちゃんは、生まれつき目が悪かったんだけど、戦時中、9人居る兄弟の為に働いたり、ご飯とかを分けてあげたりして、十分な食事を取らなかったから、目がほとんど見えなくなった。
その頃から、ばあちゃんは、人が見えないものが見えるようになった。
多分、ばあちゃんの目が見えなくなったのは、それだけじゃない。
結婚する筈の男性が、戦艦に乗って「名誉の戦死」をして帰ってきた。
「たくさんの仲間達が御国の為に死んでるのに、こんな事、言ってはいけないと思うけど…俺は、あなたの為に生きて帰ってきたい。あなたと、家を作って、子供いっぱい作って、幸せに暮らしたい。俺が漁に行って、あなたはそこの浜で、子供たちと一緒に手を振って『ご飯だよ』 って待ってて欲しいんだ」
「生きて帰って来てね。待ってる。ヒュウズたくさん作って待ってるよ」
「うん、帰ってくる。腹いっぱい、あなたの作ったヒュウズ食べるんだ」
と、別れの夜に、ばあちゃんを抱きしめて言ったそうだ。
その男性と結婚式をする筈だった1ヶ月前の出来事だった。
ばあちゃんは、その人の無事を祈った。
手紙が届いたら、何度も読み返して。
(ばあちゃんはほとんど学校に行けなかったから、その人は平仮名とカタカナで書いてくれたそうな)
自分で拙いけど、何度も
「オクニノタメニガンバッテクダサイ」
と、帰ってくる祈りを込めて返事を書いた。
本当は
「生きて帰ってきて」
と書きたかったって言ってた。
「あなたを、ずっとずっと愛しています。忘れません。どうか幸せになってください」
の言葉を最後に、その人からの手紙は途絶えた。
そして、数ヵ月後、終戦を迎えて。ばあちゃんが畑を耕していると、畑の向こうに、軍服姿の許婚の姿があった。
「謙蔵さんですか」
と問うと、その人は悲しそうに頷いたそうな。
「戻ってきたのすか?」
と、また頷く。
「じゃぁ、一緒になれんかね…」
首は横に振られた。
嫌な予感がしたのと、何やらその男の人の実家が騒がしいので(ご近所さんだった)行って見たら、その人の変わり果てた姿があった…んだって。
もう、骨だったみたいだけど、遺品の中に、ばあちゃんの写真と、手紙があったという。
ばあちゃんが見た、結構クリアな映像は、それが最後だって、言ってた。
ばあちゃんは、その人が食べたかったヒュウズを、食糧難の中、材料を掻き集めて、頑張って作って、供えた。ご家族は泣いてたって。
「謙蔵が好きな物…食べたかったろう。ありがとう、ありがとう」
と。
数年後、落ち込んで力も出ないばあちゃんに、見合い話が舞い込んだ。
相手は、ばあちゃんの住む村から遠く離れた山奥の農家の長男だった。
それまでも、何度か見合い話があったけど、ばあちゃんは断っていたそうで。
曾じいちゃんと曾ばあちゃん(ばあちゃんの父母)の勧めもあって、その人と結婚した。
その人が、私のじいちゃんとなる人だ。
じいちゃんは、牛を育てたり、畑を耕したり、山に入って獲物を取ったりと、働き者だけど、お酒と煙草がやめられない人だった。
ある意味、ちょっと自暴自棄だった。
一人で大木を切り出してきたり、犬も連れずに熊狩りに行ったり。
大怪我をして帰ってくることも多かった。
心配して、ばあちゃんは
「もう、なんでそんな事するの」
といつも泣いていたそうだ。
ある夜、じいちゃんが、
「俺はな、特攻隊に入る筈だった」
と語りだした。
「特攻隊に入るかも知れないって時、俺は死んだ仲間を思い出していた。赤ん坊の頃から友達だった近所のの○○や●●だって、特攻したりでこの世に居ない、俺がこのまま生きている訳にも行かないからな。でも、覚悟を決めた時に、終戦を迎えた。俺は死ねなかったんだ」
と、酒をかっ食らった。
でも、ばあちゃんには、その、じいちゃんの幼馴染とかが見えてた。
一人は航空隊、もう一人は海兵だった。
「はっちゃん、なんでそんな事するの」
「そんな事しないでくれよ、ちゃんと生きてくれよ」
と、幼馴染達は嘆いていたそうだ。
「幼馴染の人等が泣いてるよ」
と言うと、じいちゃんは少し黙って、
「そうか」
と言って項垂れた。
それからは、じいちゃんは自暴自棄な事を抑えた。酒と煙草はやめなかったけど。
子供は四人設けて、一人は死んだけど、結構幸せな家庭だった。
時は流れて、私が生まれた。
6人の孫の中で一番年下の私を、じいちゃんは猫可愛がりして、どこに行くにも連れてった。
小さかった私は、じいちゃんの後ろを付いて歩き、じいちゃんがちょっとでも見えなくなると、
「じいちゃ、じいちゃ」
と泣く赤子だったそうな。
山菜取りとかに行くときに、背負い篭に入れられて行った事も覚えている。
八歳の時に、じいちゃんは脳に血の塊が出来て倒れた。
じいちゃんのお見舞いには一回しか行ってない。手が痛くなるほど手を握られた。
闘病生活があまりにも壮絶で、
「●(私)の前では元気なじいやんで居たい」
と、まだ大丈夫だった頃、じいちゃんは言ったそうだ。
もう、何もわからなくなった頃、頻りに
「ばあやん、ばあやん」
と、じいちゃんは言うようになった。
昼も夜も、ずーっと
「ばあやん、ばあやん」
ばあちゃんは目が全く見えなくなっていたので、介護できずに家にいたのですが、ばあちゃんの妹やうちの母さん達が看病している時に、ずっと、
「ばあやん、ばあやん」
「私は、ばあやんじゃないよ。今度ばあやんって言ったら10円取るよ」
と、ばあちゃんの妹は言った。
「ふん」
と、頷くけど、じいちゃんは
「ばあやん、ばあやん」
死ぬときも、最後まで
「ばあやん、ばあやん」
と呼んでいたという。
そして、じいちゃんは、年の暮れに逝った。72歳だった。
死ぬときに、私に挨拶をしに来た。いつもの農作業着で、農協の帽子をかぶって、
「おー、●、ほんじゃな。良い子にするっこだぞ」
と、じいちゃんは消えた。
その頃、ばあちゃんの家では、玄関が開いた音がして、ばあちゃんが
「じいやんか」
と聞くと、
「ふん」
と、頷く声がしたそうで、
「逝くのか」
と聞くと、また
「ふん」
と。
ばあちゃんは泣いた。
「お盆になりゃ帰ってくるけどね」
と、笑うけど。
でも、ばあちゃんはそれから夢を見るようになった。
玄関のところに、じいちゃんが立っていて、
「どこに行くの」
とばあちゃんが尋ねると、
「ちょっとよ」
と言って、歩いていってしまう。
家を離れて曲がり角を曲がると、じいちゃんと、幼馴染達が談笑していて、死んだ娘もいる。
その中に、何故かばあちゃんの昔死んだ許婚も居て、ばあちゃんを見て、ニコッと笑って。
皆で何処かに行ってしまう。
「まだ呼んでくれないのね」
と、ばあちゃんは笑ってた。
おばあちゃんちにこの間泊まったら、してくれた話。
方言が激しいから、言った言葉は標準語で書きます。
お祖母ちゃんは、生まれつき目が悪かったんだけど、戦時中、9人居る兄弟の為に働いたり、ご飯とかを分けてあげたりして、十分な食事を取らなかったから、目がほとんど見えなくなった。
その頃から、ばあちゃんは、人が見えないものが見えるようになった。
多分、ばあちゃんの目が見えなくなったのは、それだけじゃない。
結婚する筈の男性が、戦艦に乗って「名誉の戦死」をして帰ってきた。
「たくさんの仲間達が御国の為に死んでるのに、こんな事、言ってはいけないと思うけど…俺は、あなたの為に生きて帰ってきたい。あなたと、家を作って、子供いっぱい作って、幸せに暮らしたい。俺が漁に行って、あなたはそこの浜で、子供たちと一緒に手を振って『ご飯だよ』 って待ってて欲しいんだ」
「生きて帰って来てね。待ってる。ヒュウズたくさん作って待ってるよ」
「うん、帰ってくる。腹いっぱい、あなたの作ったヒュウズ食べるんだ」
と、別れの夜に、ばあちゃんを抱きしめて言ったそうだ。
その男性と結婚式をする筈だった1ヶ月前の出来事だった。
ばあちゃんは、その人の無事を祈った。
手紙が届いたら、何度も読み返して。
(ばあちゃんはほとんど学校に行けなかったから、その人は平仮名とカタカナで書いてくれたそうな)
自分で拙いけど、何度も
「オクニノタメニガンバッテクダサイ」
と、帰ってくる祈りを込めて返事を書いた。
本当は
「生きて帰ってきて」
と書きたかったって言ってた。
「あなたを、ずっとずっと愛しています。忘れません。どうか幸せになってください」
の言葉を最後に、その人からの手紙は途絶えた。
そして、数ヵ月後、終戦を迎えて。ばあちゃんが畑を耕していると、畑の向こうに、軍服姿の許婚の姿があった。
「謙蔵さんですか」
と問うと、その人は悲しそうに頷いたそうな。
「戻ってきたのすか?」
と、また頷く。
「じゃぁ、一緒になれんかね…」
首は横に振られた。
嫌な予感がしたのと、何やらその男の人の実家が騒がしいので(ご近所さんだった)行って見たら、その人の変わり果てた姿があった…んだって。
もう、骨だったみたいだけど、遺品の中に、ばあちゃんの写真と、手紙があったという。
ばあちゃんが見た、結構クリアな映像は、それが最後だって、言ってた。
ばあちゃんは、その人が食べたかったヒュウズを、食糧難の中、材料を掻き集めて、頑張って作って、供えた。ご家族は泣いてたって。
「謙蔵が好きな物…食べたかったろう。ありがとう、ありがとう」
と。
数年後、落ち込んで力も出ないばあちゃんに、見合い話が舞い込んだ。
相手は、ばあちゃんの住む村から遠く離れた山奥の農家の長男だった。
それまでも、何度か見合い話があったけど、ばあちゃんは断っていたそうで。
曾じいちゃんと曾ばあちゃん(ばあちゃんの父母)の勧めもあって、その人と結婚した。
その人が、私のじいちゃんとなる人だ。
じいちゃんは、牛を育てたり、畑を耕したり、山に入って獲物を取ったりと、働き者だけど、お酒と煙草がやめられない人だった。
ある意味、ちょっと自暴自棄だった。
一人で大木を切り出してきたり、犬も連れずに熊狩りに行ったり。
大怪我をして帰ってくることも多かった。
心配して、ばあちゃんは
「もう、なんでそんな事するの」
といつも泣いていたそうだ。
ある夜、じいちゃんが、
「俺はな、特攻隊に入る筈だった」
と語りだした。
「特攻隊に入るかも知れないって時、俺は死んだ仲間を思い出していた。赤ん坊の頃から友達だった近所のの○○や●●だって、特攻したりでこの世に居ない、俺がこのまま生きている訳にも行かないからな。でも、覚悟を決めた時に、終戦を迎えた。俺は死ねなかったんだ」
と、酒をかっ食らった。
でも、ばあちゃんには、その、じいちゃんの幼馴染とかが見えてた。
一人は航空隊、もう一人は海兵だった。
「はっちゃん、なんでそんな事するの」
「そんな事しないでくれよ、ちゃんと生きてくれよ」
と、幼馴染達は嘆いていたそうだ。
「幼馴染の人等が泣いてるよ」
と言うと、じいちゃんは少し黙って、
「そうか」
と言って項垂れた。
それからは、じいちゃんは自暴自棄な事を抑えた。酒と煙草はやめなかったけど。
子供は四人設けて、一人は死んだけど、結構幸せな家庭だった。
時は流れて、私が生まれた。
6人の孫の中で一番年下の私を、じいちゃんは猫可愛がりして、どこに行くにも連れてった。
小さかった私は、じいちゃんの後ろを付いて歩き、じいちゃんがちょっとでも見えなくなると、
「じいちゃ、じいちゃ」
と泣く赤子だったそうな。
山菜取りとかに行くときに、背負い篭に入れられて行った事も覚えている。
八歳の時に、じいちゃんは脳に血の塊が出来て倒れた。
じいちゃんのお見舞いには一回しか行ってない。手が痛くなるほど手を握られた。
闘病生活があまりにも壮絶で、
「●(私)の前では元気なじいやんで居たい」
と、まだ大丈夫だった頃、じいちゃんは言ったそうだ。
もう、何もわからなくなった頃、頻りに
「ばあやん、ばあやん」
と、じいちゃんは言うようになった。
昼も夜も、ずーっと
「ばあやん、ばあやん」
ばあちゃんは目が全く見えなくなっていたので、介護できずに家にいたのですが、ばあちゃんの妹やうちの母さん達が看病している時に、ずっと、
「ばあやん、ばあやん」
「私は、ばあやんじゃないよ。今度ばあやんって言ったら10円取るよ」
と、ばあちゃんの妹は言った。
「ふん」
と、頷くけど、じいちゃんは
「ばあやん、ばあやん」
死ぬときも、最後まで
「ばあやん、ばあやん」
と呼んでいたという。
そして、じいちゃんは、年の暮れに逝った。72歳だった。
死ぬときに、私に挨拶をしに来た。いつもの農作業着で、農協の帽子をかぶって、
「おー、●、ほんじゃな。良い子にするっこだぞ」
と、じいちゃんは消えた。
その頃、ばあちゃんの家では、玄関が開いた音がして、ばあちゃんが
「じいやんか」
と聞くと、
「ふん」
と、頷く声がしたそうで、
「逝くのか」
と聞くと、また
「ふん」
と。
ばあちゃんは泣いた。
「お盆になりゃ帰ってくるけどね」
と、笑うけど。
でも、ばあちゃんはそれから夢を見るようになった。
玄関のところに、じいちゃんが立っていて、
「どこに行くの」
とばあちゃんが尋ねると、
「ちょっとよ」
と言って、歩いていってしまう。
家を離れて曲がり角を曲がると、じいちゃんと、幼馴染達が談笑していて、死んだ娘もいる。
その中に、何故かばあちゃんの昔死んだ許婚も居て、ばあちゃんを見て、ニコッと笑って。
皆で何処かに行ってしまう。
「まだ呼んでくれないのね」
と、ばあちゃんは笑ってた。
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