都市伝説・・・奇憚・・・blog
もうひとつの声
2008.07.18 (Fri) | Category : 誰も信じない人へ
文化祭でオリジナルソングを歌ったときのものですが、あまりの悲惨な結果のためすぐに聞く勇気はなかったので、部屋のラックの中に入れっぱなしのままでした。
聞いてみようと思ったのは、大学3年のときでした。そのときは山岳部に所属していました。
山小屋で皆に聞かせれば笑いの種にもなろうぞとテープを再生し、はじめて気づきました。
声が入っている。自分の声ではない。誰かが、何か言っている。
私は即座に停止ボタンを押した。歌っているときは夢中で、そんな声が入っていたかはわからない。しかし、あの中に盛り上がるような声はなかったはずなのです。
鳥肌がたった腕をさすりつつ、やっぱり話の種くらいにはなるだろうと、私はテープを上高地まで持って行きました。
仲間は5人。就職活動前の最後の登山でした。僕らの登山は名前ばかりで、ハイキング寄りと言った方がいいかもしれません。
山小屋まで移動するコースの途中で私たちは道を失いました。遭難しかけたのは短い間でした。
深い霧の中で、私たちは暖かくして岩と岩の間でじっとしていました。
山では年間何人もの人間が死にます。もしその数字に自分が数えられるたら、もし助かっても莫大なレスキュー費用が請求されたらどうしようと震えていました。
私が持ってきたデッキにはラジオがついていましたが、不鮮明な音が流れるだけでした。その時、仲間が私の持ってきたお化けテープを見つけ、
「気分が悪くなる。聞こう」
と言い出しました。明るくするどころか、さらに不幸な気分に貶めそうな内容なので止めようとしたのですが、
情けない文化祭の、本人以外には愉快この上ないテープと勘違いしだ彼らは制止を聞かずに再生してしまいました。
やはり、声が入っています。私は思わず耳をふさぎました。仲間がボリュームをあげます・・・・・・・
その数時間後、僕らは山小屋へ難なく到着しました。
今でも彼らに会うと、テープの話をされます。あの時、音量を上げたテープにはこう入っていました。
「がんばれ、がんばれ、」
僕に黙って文化祭のステージを見に来た母の声でした。
怖い話じゃない、と突っ込まれそうなので書いておきます。
母は僕が中学生の時に病気で死んでいるのです。
握り飯とカーディガン
2008.07.17 (Thu) | Category : 誰も信じない人へ
姉と親戚の子がお通夜の時二人で線香を絶やさないよう番をしていた時、2人ともばあちゃん子で一晩中亡くなったばあさまに話しかけてたんだそうな。
その時ばあさまがあの世で寒くないように愛用のカーデガンと握り飯を懐にこっそり入れてたんだそうな、もちろん誰も知らない。
葬式&火葬が終わって親戚一同一旦本家に戻った時の事。
親戚の叔母さんが厠から帰ってくるなり
「暗い」
「ここはどこな?」
の連発
「ばあちゃん?」
と聞くと
「○子な?どこな?ようわからん」
「大丈夫?迷っちゃいかんよ」
と言うと
「○子(うちの姉)と○子が握り飯とカーデガン持たせてくれたけん寒くないし腹もへっとらん」
「光が見える方にいかなならんよ」
「あっちに行けばいいと?わかった・・・」
で叔母さんバタン
叔母さんの話では厠で座った時、目の前にばあさまの足が見えたそうな、その後の記憶なし。
んでもって姉たちの握り飯の件ばれる。
ばあさま、ちゃんといけたかな?
虫の知らせ
2008.07.16 (Wed) | Category : 誰も信じない人へ
第三京浜を180Kmで爆走中においらはポツリと一言
「ハンドルきり損ねたらみんな死んじゃうな」
みんなは引きつり笑いしながら、
「こんな時にそんなこと言うなよ」
翌日の夜のん気に帰宅。だれもいない。
テーブルに上に手紙が。
”お父さんが交通事故に遭って重体です。入院先は・・・・・”
親父は自分が何の気無しにしゃべった時間に、一時停止不履行のドキュンガキにぶつけられた。
三日後に死んだ。
今でもレビンを見るとムカツク。
両親が元気な人は今のうちに孝行してやれ。
死んだ後は墓参りぐらいしかできなくなる。
生きてたときはムカツク親父だったが、いなくなるとやっぱり堪える。
宿題
2008.07.15 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
俺の友達の話しだけど。
俺の友達は、古風に言えばヤンキーだった。
高校もろくに行かず、友達と遊び回っていたそうだ。
先生達は皆サジを投げていたそうだが、友達の担任の教師だけは、そうじゃなかった。
かなりの豪傑だったらしく、何事にも熱心に取り組む先生だったらしい。
幾度となく留年の危機に瀕した友達を叱咤激励してくれたそうだ。
友達はその分、反抗もしたみたいだけど。
先生のおかげか、そいつの頑張りかは知らんけど、友達は高校を卒業してとある土木会社に就職。
そして、去年の10月頃、やつは不思議な夢を見たらしい。
高校の教室、辺りはぼんやりとしていて、何人かの生徒の姿が見える。
教壇には、ニカッと笑った先生の姿があった。
その先生は突然、黒板に「自習」という字を書くと
「明日から休みになるが、宿題がある!」
と叫んだ。
友達が
「えーっ!」
と声を上げると、先生は笑って
「俺からの最後の宿題だ。幸せになれ」
と言ったという。
目が覚めた後、何となく変な感覚があったと友達は言っていた。
そして、その日のお昼頃、そいつは突然、先生の死を知らされたそうだ。
原因は俺は知らないけど、急死だったらしい。
この間、飲みの席で
「俺の先公の命日だったんだ」
なんて話しから、その話しを聞かせてくれた。
いつも強気で口調の荒いそいつが、声を殺して泣いているのを見て、先生の最後の宿題を、こいつはちゃんと続けているんだなぁ、って思った。
別に感動できるような話しじゃなくてスマソ。
怒りを生きる力に
2008.07.14 (Mon) | Category : 誰も信じない人へ
14歳の時に友人が殺されました。犯人は服役して、もう出所してます。
24.5才の時に夜、水を飲みに台所に行くと誰かがいました。
あまり見える方ではないのにはっきりと髪形が見え、
「そろそろ、大人になりなよ」
と言われました。
誰かはわからず
「幽霊だけみたなぁ」
と思いました。恐くはなかったのが印象的でした。
言われた言葉も引っかかり、次の日に母に話しました。
「昨日、幽霊見た。ショートカットの女性で細めで……あ……」
その時やっとその幽霊が
「大人の姿で会いに来た友人」
だと気がつきました
14歳の時に
「犯人が出所した時、犯人が本気で許せなかったらこの手で殺そう……」
と思ってました。
多分、その時が犯人の出所した日だったのでしょう。
実刑判決15年でしたから。10年ぐらいで出て来たのだと思います。
14歳で時が止まった彼女なら……大人になれと言われて当然だと思いました。
14歳の時も生きるのが辛かった私は、私が代わりに死ねば良かったと思ってました。
24.5歳の時も生きる事に疲れて引きこもってました。友人は一喝してくれたみたいです。
今はバイトしてます。資格も取ろうと勉強する予定も立てました。
14歳の時に心の底に沈めた殺意や怒りはテレビで集団暴行や暴行殺人のニュースを見る度に握りこぶしとなって出て来ます。そんな時、友人のことを思い出すと私の中で彼女はいつも微笑んでました。
事件から17年間……いつも心の中で友人は微笑んでいた。
犯人を許すことはできなくても、私の中の殺意や怒りはどうにかできると思い始めた今日この頃です。
今考えると彼女の死は人生の分岐点でした。
中学1年の終りに、彼女の背中を見ながらなぜかはっきりと
「この子、死んじゃうんしゃないか?」
と思いました。
半年後に生まれて初めてやった占いで、身近に死が近付いている暗示が出ました。
その時は
「死んじゃうんじゃないか?」
と友人に思った事を忘れてましたし、遊びだと思ってました。
だから、全てが分かった時は友人が死んだ悲しみより、
「未来を変えられなかった自分」
に悔しくて仕方がなかった。
何度か「虫の知らせ」はあったのに、なにも出来なかった。占いは一切封印して、雑誌の星占いも嫌いになった。
14歳の私が当時の彼女にできることはただ一つ、彼女が生きた事を忘れないこと。
だから、葬式の時は泣かなかった。泣いたら涙と一緒に怒りも犯人への殺意も流れてしまうからだろう。
骨壷になった姿を見て、流石に涙があふれたけれど終りじゃなく何かが始まる気がしてました。
就職して憧れてた東京に遊びに行けるようになり、関東にあった友人の墓へも何度か参りました。
何度目かの墓参りの時に
「細長いコーラの缶」
が浮んで離れませんでした。
ペットボトルか350が全盛期なのになぜ?と不思議に思ってたら、友人の記憶だと気がつきました。
お備えのジュースも味が変わりはじめ、気が付いたら元々あったらしい霊媒体質に磨きがかかってました。
三十路越えてハイパー化する体質とともに、嫌でも命の大切さを学ばされました。
人を殺すかもしれなかった手は二十歳ぐらいに左手は人差指の側面、右は人差し指と薬指の側面ほくろができて、両手のほくろを見ようとすると無条件で拝むようになるのです。
右の薬指のほくろも見ると、仏像と同じ手の形になります。拝んでるのではなく、ほくろを見てるだけなんですが。
何度か人が亡くなる体験をして、人が死んだら泣ける人間になれました。
葬式では故人の言葉も頭に響くようになり、世間話されて笑いそうになったり……。
来年から人を生かすための勉強を始めます。
犯人が来ても当たり前のように治療する私になりたい。
生きる事は多分、そんな事だと思うので。
