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メアリー・セレスト号事件
2009.09.08 (Tue) | Category : トピックス
メアリー・セレスト号(英: Mary Celeste)は、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もあるが、事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化している。
なお、コナン・ドイルはメアリー・セレスト(Mary Celeste)号にまつわる一連の事件をもとに1884年『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という小説を書いているが、ここでは船名が「マリー・セレスト(Marie Celeste)号」となっているため、実際には『マリー・セレスト号』という船名の方が有名かもしれない。
最も有名な例は次のようなものである。
『メアリー・セレスト号を発見したデイ・グラチア号の船員が乗り移ってみると、船内には食べかけの朝食がまだ暖かいまま残っており、ほんの一瞬前まで全員が何事もなく乗船していたようであった』
実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査でそのような事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマである。
救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられているが、これも後に創作されたものであり、実際には救命ボートはなくなっていた。
現在判明している真相は下記の通りである。
1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号はニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコール(おそらくメタノール)を積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航した。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていた。
1872年12月4日(19世紀には標準時の制定前であるため、12月5日であったともいわれる)、メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号(Dei Gratia)に発見された。
デイ・グラチア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズ船長と知り合いだった。デイ・グラチア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレスト号を観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断した。
実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリバー・デボーは小さなボート数隻を率い、メアリー・セレスト号に向かった。デボーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。ボンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたという。船は他の点では良好な状態であるように思われたが誰も乗っていなかった。
前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていた。六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった。3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。
1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6ヶ月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置である。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もあるが、事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化している。
なお、コナン・ドイルはメアリー・セレスト(Mary Celeste)号にまつわる一連の事件をもとに1884年『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という小説を書いているが、ここでは船名が「マリー・セレスト(Marie Celeste)号」となっているため、実際には『マリー・セレスト号』という船名の方が有名かもしれない。
最も有名な例は次のようなものである。
『メアリー・セレスト号を発見したデイ・グラチア号の船員が乗り移ってみると、船内には食べかけの朝食がまだ暖かいまま残っており、ほんの一瞬前まで全員が何事もなく乗船していたようであった』
実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査でそのような事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマである。
救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられているが、これも後に創作されたものであり、実際には救命ボートはなくなっていた。
現在判明している真相は下記の通りである。
1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号はニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコール(おそらくメタノール)を積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航した。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていた。
1872年12月4日(19世紀には標準時の制定前であるため、12月5日であったともいわれる)、メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号(Dei Gratia)に発見された。
デイ・グラチア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズ船長と知り合いだった。デイ・グラチア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレスト号を観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断した。
実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリバー・デボーは小さなボート数隻を率い、メアリー・セレスト号に向かった。デボーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告した。ボンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたという。船は他の点では良好な状態であるように思われたが誰も乗っていなかった。
前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていた。六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった。3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。
1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6ヶ月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置である。
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