都市伝説・・・奇憚・・・blog
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大震災の後に
2007.12.05 (Wed) | Category : 誰も信じない人へ
初めにこの話は、オカルトではないかもしれないことを断っておきます。
もう十年年たったので、やっと少し話せるようになった。
大地震のために、大津波と大火災に襲われた島の話をしよう。
皆さんもこう書けば、きっと憶えていることだろうから、その島の名前は書かない。書くことができないのだ、まだなまなまし過ぎて、申し訳ない。
そこは、亡き母の生まれ故郷、そして私の第二の故郷でもある。記憶の宝箱のような島だ。
大震災の一ヶ月後、私は、休暇をとり津波でなくなった親戚達の遺品を探しに島に入った。
飛行機を降りると、なんと言う事だろうか、村は無くなっていたのだった。
それ以上、言葉で言い表す事は出来ない。
津波に襲われた所は、不謹慎かもしれないが、きれいに平らな更地になり、こんなに狭かったろうかと思うほどだった。写真一枚無かった。そもそも道も家もない。
よくよく見ると。土台部分のアンカーボルトがひしゃげて残っているだけだったのだから・・・・
被災した島の人達も一部が仮設にはいったばかりで、まだ大部分が近くの小学校の体育館で、生活する事を余儀無くされていた。
遺体の捜索活動がつづくなかで、親戚達の家があったと思われる周辺を10日間ずっと歩いた。
先祖の位牌でも、手紙でも良い、とにかくその人達が生きていた印を見つけたい。そう思った。
しかし、何かもが流されていた。高さ30メートルの津波というもは、ささやかな人々の暮しの跡をいとも簡単に吹き飛ばすのに十分すぎるエネルギーを持っていたのだと思う。
数多くのボランティアの方々が、島に来て、毎日のように仮設を回り一人きりになった遺族達を訪ね物資を運び本当に頭が下がる思いだった。
たが私の叔父や伯母や従姉の遺品はとうとう見つからなかった。
10日目、いよいよ最後にせめて墓参りをして帰ろうと思った。数少ない生き残った叔父と墓場に出向いた。小高い丘に上に墓地があった。昔はその丘から港が一望できて、廿日盆には、皆で夕方からごちそうを重箱に詰めてお墓の前で賑やかに食べたものだ。
でも、被災者にとっては、それどころでなはなかった。生きることが大変だったからだ。
震源に近かったから当然に墓石も倒れているに違いない。そう覚悟していた。
墓地に行って驚いた。倒れた墓石がすべて元に戻してあり、欠けた所も補修してあるではないか。
こんな大変な時に誰が補修してくれたのだろうか。なにかキツネにでも鼻をつままれたような気がした。
生き残った叔父のいる仮設に戻り「誰が墓石を直したのか」と問うと何処からか石材組合の方々が来て何も言わずもくもくと墓石を積み上げ、修復し何も言わずに帰っていった、という事だった。それも被災者に迷惑を掛けないように仮設で休んだり飲み食いはしなかったようだった。仕事が終わると次ぎの墓地に去っていったという。
私は、その話を聞いて泣いた。嬉しい涙だった。こんな人達もいるのだと・・・
そして数年後阪神大震災が起きた。きっとそこでも人知れず自分の仕事をこつこつとした人々が数多くいたに違いない。
翌日飛行機が出る直前に警察が漂着物を公開し、その中からかろうじて写真と手紙数枚を見つけ東京にいる遺族に渡す事が出来た。
もう十年年たったので、やっと少し話せるようになった。
大地震のために、大津波と大火災に襲われた島の話をしよう。
皆さんもこう書けば、きっと憶えていることだろうから、その島の名前は書かない。書くことができないのだ、まだなまなまし過ぎて、申し訳ない。
そこは、亡き母の生まれ故郷、そして私の第二の故郷でもある。記憶の宝箱のような島だ。
大震災の一ヶ月後、私は、休暇をとり津波でなくなった親戚達の遺品を探しに島に入った。
飛行機を降りると、なんと言う事だろうか、村は無くなっていたのだった。
それ以上、言葉で言い表す事は出来ない。
津波に襲われた所は、不謹慎かもしれないが、きれいに平らな更地になり、こんなに狭かったろうかと思うほどだった。写真一枚無かった。そもそも道も家もない。
よくよく見ると。土台部分のアンカーボルトがひしゃげて残っているだけだったのだから・・・・
被災した島の人達も一部が仮設にはいったばかりで、まだ大部分が近くの小学校の体育館で、生活する事を余儀無くされていた。
遺体の捜索活動がつづくなかで、親戚達の家があったと思われる周辺を10日間ずっと歩いた。
先祖の位牌でも、手紙でも良い、とにかくその人達が生きていた印を見つけたい。そう思った。
しかし、何かもが流されていた。高さ30メートルの津波というもは、ささやかな人々の暮しの跡をいとも簡単に吹き飛ばすのに十分すぎるエネルギーを持っていたのだと思う。
数多くのボランティアの方々が、島に来て、毎日のように仮設を回り一人きりになった遺族達を訪ね物資を運び本当に頭が下がる思いだった。
たが私の叔父や伯母や従姉の遺品はとうとう見つからなかった。
10日目、いよいよ最後にせめて墓参りをして帰ろうと思った。数少ない生き残った叔父と墓場に出向いた。小高い丘に上に墓地があった。昔はその丘から港が一望できて、廿日盆には、皆で夕方からごちそうを重箱に詰めてお墓の前で賑やかに食べたものだ。
でも、被災者にとっては、それどころでなはなかった。生きることが大変だったからだ。
震源に近かったから当然に墓石も倒れているに違いない。そう覚悟していた。
墓地に行って驚いた。倒れた墓石がすべて元に戻してあり、欠けた所も補修してあるではないか。
こんな大変な時に誰が補修してくれたのだろうか。なにかキツネにでも鼻をつままれたような気がした。
生き残った叔父のいる仮設に戻り「誰が墓石を直したのか」と問うと何処からか石材組合の方々が来て何も言わずもくもくと墓石を積み上げ、修復し何も言わずに帰っていった、という事だった。それも被災者に迷惑を掛けないように仮設で休んだり飲み食いはしなかったようだった。仕事が終わると次ぎの墓地に去っていったという。
私は、その話を聞いて泣いた。嬉しい涙だった。こんな人達もいるのだと・・・
そして数年後阪神大震災が起きた。きっとそこでも人知れず自分の仕事をこつこつとした人々が数多くいたに違いない。
翌日飛行機が出る直前に警察が漂着物を公開し、その中からかろうじて写真と手紙数枚を見つけ東京にいる遺族に渡す事が出来た。
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