都市伝説・・・奇憚・・・blog
親子は親子
2008.08.12 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
私の父が亡くなった時のお話です。
もう、20年近く前の話しですが・・・・
父は私が幼い頃に保証人倒れで会社を潰しました。それからは、母と二人債権者から逃げる毎日でした。
家にあったものは全て持っていかれ、最終的には家にも居られない状態になり幼い私には、どういういきさつか分からないのですが、飯場を転々としながら板のような椅子で寝起きしていました。
小学校1年生は丸々学校に行ったことがありません。
何とか母と二人で住まうところが見付かりましたが、食べるものも無く野の草を食べ、給食のパンを持ち帰り、母はそれで命を繋いでいました。
母に手を引かれて線路脇に立ち尽くしていた記憶も消えません。
大きくなるに連れ、生活保護を受けたりしながら追われる生活からも段々と解放されていきましたが
私の中で、全てが父のせいだということを理解し始め怒りや父に対しての恨みも大きく大きくなってきました。
中学を卒業して美容師になり、家計を助けることになりましたが その頃の私は消息不明になってしまった
父を探して殺してやる・・・と、その事ばかり考えて生きていました。
休みを使っては、父を探し周りましたが今思えば何の手がかりも無く見付かる訳もありません。
それでも、一級建築士だった父の仕事関係から片っ端に探し回りました。
母には、どうしても父を探している事は言えずにいました。
ある日、母の留守に何かの用で箪笥の引出しを探っていると小さなメモが出てきました。
住所だけが書いてある紙でした。東京の池袋・・・。何と無くピンと来て次の休みに出かけてみました。
しかし、余りに入り組んだ路地に下宿のようなアパートが立ち並び苦難しましたが、やっと探し当て父が住んでいる事だけを確認し、帰って来てしまいました。その時のバッグの中には包丁が忍ばせてありました。
探し探した父が、あそこにいるんだ・・・という思いは、何故か私の何年もの思いを揺さぶりました。
近所の方の話しだと、脳溢血で何度か救急車で運ばれて歩くのもしゃべるのも困難だと言うことでした。
私の中には、いつも堂々とした父の姿しか無かったので愕然としたものです。
次の休みにまた出向いてみました。その時、私の手には父が好きだったアジの干物と減塩醤油・減塩味噌がありました。今でも不思議な行動です。
いざ父と対面すると、まだ60代には遠いはずなのに70歳過ぎのオジイチャンに見えました。
持って行った紙袋を放るように渡すと、結局 何の会話も無く驚いた父の顔を見て帰るしかありませんでした。
正月が近かくなっていた ある日、母に
「今年の正月はお父さん呼んでやったら?」
と自分でも驚くような事を言い出しました。
父の倒産以来、家を出ていた兄にも偶然連絡がつき 十数年振りに質素ではありますが家族全員が揃って正月を迎えることができました。丁度、私の成人する年の正月でした。
口の回らない父は、ずっとニコニコと笑っていたのを覚えています。
「孫の顔見るまでには元気になっときなさいよ!」
などと言っている自分・・・
それが本音なのか、老いて病んでしまった父への同情からなのか、その時には分かりませんでした。
父が亡くなったという知らせを受けたのは、その年の3月の初旬でした。
日曜日の目が回るほど忙しい日で、ワタワタと仕事をこなしていると普通に今までカットしていた櫛がいきなり真っ二つに割れました。あり得ない事ですが、それに構っていられないほどの忙しさだったため
「何か起こらなければいいな・・」
と、元々勘のある自分は頭の隅っこで思っていた位でした。
次の瞬間に電話が鳴りました。店長が電話を取って二言三言話すと、私が呼ばれました。
受話器を渡される時に
「直ぐに帰れ」
と言われ、受話器を取ると兄が
「お父さん、死んじゃったよ」
と。
放心状態のまま、頭を下げて仕事を早退し待ち合わせた渋谷に向かいました。
父は夜中に苦しみ出して、壁の薄い安普請だったため隣の方が気付いて救急車を呼んでくださり病院で息を引き取ったそうです。誰にも知らせずに無縁仏にしてくれと囈で言ったそうで、家族に連絡を取るのに病院の方では苦労なさったみたいです。
知らせを受けて向ったのは、下落合の火葬場でした。
大きな火葬場の隅にある霊安所に数体の棺に入ったご遺体と並んでいましたが、父のだけ花も手向けられずに白木のままありました。顔を見ても涙も出ませんでした。全くピンと来なかったのです。
あれだけの思いをさせられてきた母が、独りで逝ってかわいそうにと涙していました。
一番、シラッとしていたのは多分私だったでしょう。あの時の感情は今でも分かりません。
殺したいと思い続けて来たはずなのにという気持ちと正月の父の笑顔・・・
その火葬場の一室を借りての、本当に家族だけの通夜・葬儀となりました。
アコーデオンカーテンに区切られた幾つもの部屋の一室でした。真正面には焼き場です。
控え室は、一度外へ出てから共通の階段を使って二階になりました。トイレも共同です。
兄も母も怖がりで、通夜の夜には二人でトイレに行ったりしていましたが、私には父が部屋の中に居る「空気」みたいなものを感じ、何と無く温かい気持ちになっていました。
3月の初旬だったので、深夜になると暖房があっても寒さを感じ控え室に置いてある上着を持ってくる事になりました。スクッと立ち上がって一人で上着を取りに行こうとする私を大丈夫か?という顔で見る兄と母。でも私は怖くも何とも無かった。
ただ、暗いのと やはり真正面が焼き場というのは気持ちのよいものでもないのでサッサと上着を取り階段を下って部屋に戻ろうとした時です。階段の踊場の丁度私が降りていく真正面に大きな姿見がありました。
そこがボッと薄明るくなったので目をやると、浴衣姿の父が映っていました。
身を小さくし、困ったような笑顔で深々と頭を下げる父。暫くは抱えていた上着を取り落とし父に見入ってしまいました。頭を掻きながら、もう一度深く頭を下げると薄明かりが消えるのと共に消えてしまいました。
戻ってから、兄と母に話すと
「お前に一番何もしてやれなかったから謝りに来たんだね」
と言われました。
同時に
「自分が行かなくて良かったー」
と。。。。。。
質素な通夜が終わり、質素な葬儀が終わり、最後のお別れの時です。
棺の蓋が全部明けられたときに、もう一度驚きました。
死装束を着ていると思い込んでいた父は、病院で着せて貰った浴衣のままだったのです。
その浴衣の柄は、私が前夜に鏡の中で見た浴衣の柄でした。
「何故、冬なのに浴衣なんだろう・・」
とずっと思っていたのが、納得がいきました。
既に焼き場へ向う準備をされていたので、急遽浴衣の上から白装束をかけてもらい旅立って行きました。
長旅になるでしょうから、浴衣姿じゃ寒いですものね。手甲・脚半も無ければね。
父さん、だんだん本当に大人になって子供を持って、あなたの残した仕事を見せて貰って親父としては3流以下だったけど、男としては・・・仕事人としては尊敬すべき人だったのかもしれない。
呑めない父さんだったけど、私は母さんに似てのん兵衛になっちゃったよ。
仕事も20年、一筋に続けて来れて今なら大人同士として、親同士として話しができたのになって思う。
今だったら、心の底から
「元気でいなさいよ!」
って言えたのにね。
あなたは、きっと幸せだったと思う。自分の生きたいように生きて死にたいように死んだんだよね。
片付けに行った時、全く手付かずの薬をキチンと段ボールに詰めて・・・。
ドアを開けた時、点いたままの電気とこんもりとしていた掛け布団を見て、お気に入りの席に座って一番見える所に、母さんから内緒で渡されたんでしょ?私の成人式の写真があった。
初めて涙が出たよ。
あの時だったら、やり直せたのかね・・・うちの家族。あの正月からだったら。
あっちからいつもすんでの所で母さんを追い返してくれてありがとう。
母さんがそっちへ行くのは、もうちょっと待たせてね。
聞こえるはずのない声
2008.08.12 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
俺が大学3年の時の怖い、というか悲しい話。
当時テニス部員だった俺は、夏休みに恒例の夏合宿へと行った。
テニスコートを備えた、山の中の安い温泉旅館で5泊6日の日程だった。
テニス部といってもモロ体育会系というわけではなく、どちらかというとサークル的なノリの部だったので、
参加した部員男女20余名が、テニスの練習に、酒に、異性にと、各々が、まあそれなりに例年どおりの楽しい合宿の日々を過ごしていった。
そうして合宿を終え、旅館を後にした帰り道。
参加部員たちがそれぞれ相乗りした数台の車は、途中ダムに寄ったり、食事をしたりと、連なって行動を共にしながら帰路を進んだが、各々の住処が近づくに連れ、一台、また一台と車は別れて行き、男女の後輩3人が同乗した俺の車もいつしか単独走行となっていた。
その頃、俺の車の中では、合宿に参加した連中についての色んな噂話でかなり盛り上がっていた。
そして話題は、その時の合宿で結構いい味を出してた2年生の男、Aの事に振り向けられた。
Aは合宿先の旅館に比較的近い街にある自分の実家にそのまま帰省するとの事で、自分の車に独り乗ると、帰路のかなり早い段階で合宿メンバーの車の連なりから別れていた。
「Aの奴(中略・・・)だよなぁ!?全く信じらんねーよ。」
と俺。
「いやー、本当っスよねー(W。」
助手席の後輩が応える。と、次の瞬間車内で、
「えー、そんな事ないスよー。」
・・・はっきりと聞き取れる声が響いた。聞きなれたAの声だった。
タイミングといい、調子と言い、その声のあまりの自然さに、俺の頭は一瞬その出来事を軽く流しそうになった。しかし、すぐに何ともいえない違和感が襲ってきた。
ふと横を見やると、それはどうやら助手席の後輩も同じだったらしく、奴は後ろの席の二人を振り返ると、
「よぉ、今、『そんな事ないスよ』って言った?」
と、後ろの二人のうちの男の方に、少々慌てた感じで問いただした。
「え・・? 前の方で言ってたぞ?」
と、問われたそいつ。すると、その隣の女の子が、
「て、ゆーか、今の・・A君の声だよね?」
と、訊き返して来る。
「えー、やだ、何で?」
その後、車内にちょっとした沈黙が流れた。
やはり四人とも、さっきの声が今この車内にいる誰のものでもなく、つい何時間か前に別れたはずの、あのAの声だったように感じられたのだ。
声が聞こえたのは信号待ちの時などではなく、60km/h程で走行中の事だったし、既に夜になっていたとはいえ、暑い夏のさなかのためエアコンをかけて窓は閉め切っていたのだから、俺の車の室内で声がしたのは疑う余地も無く確かだった。
もしやと思い、カーステレオで流していたカセットを巻き戻してかけ直したりもしてみたのだが、テープに入っている曲に異状は無かった。大体どう考えてもスピーカーから聞こえた感じではない。
その声は、右ハンドルで運転する俺の、頭のすぐ左斜め後ろ辺りから聞こえてきたのだ。
結局、
「テレパシーだよ。」
とか
「Aが小型無線機仕掛けたんじゃねーの?」
とか、半分冗談めかしたような推測を言い合っているうちに、この三人を下ろす予定だった駅に辿り着いてしまった。
現在のように携帯電話が普及していれば、すぐにでもAに電話して確かめようとしたんだろうが、その時は今から13年も前の昔であり、またAの実家の電話番号も車内で簡単に調べる術は無かった。
あの声が聞こえてから、車内でぽつぽつとAの事や声の事についてあれこれ言葉を交わしていた間、今思い返すとおそらくその場の四人全員が、共にある胸騒ぎを覚えていたんじゃないか、と感じられてならない。
きっとその時は、皆それを口に出すのがいけない事のような気がして、その思いから互いの意識を逸らそうとしていたかのように思えるのだ。
俺は駅のバスロータリーに車を停めた。三人の後輩たちは荷物を下ろすと、駅の入り口の前に並んで口々に礼を言いながら俺に手を振った。
「お疲れ様でしたーっ。」
「んじゃ、どーも、お気をつけてー。」
俺も別れの挨拶に応えて、
「おつかれー。」
と、開けた窓越しに手を振り、軽くクラクションを鳴らす。
そしてフロントウインドウに向き直り、既に発進させている車を大きなロータリーの出口へと向けた、丁度その時、
・・・またAの声が聞こえた。すぐ近くから。
「お疲れ様でしたー。」
しかし、今度は車内からではない。車の外からだった。
つい数瞬前、後輩たち三人に声を掛けた際、開け放しておいた左側の窓のすぐ向こうからその声は聞こえて来たのだ。
俺は思わず、ロータリーとその外を流れる街道とが合流する手前辺りに車を寄せた。
そして停まった車の中から左の窓の外を見やり、続いて左斜め後ろを振り返った。
10m近く後方の、たった今Aの声が聞こえたと思しき近辺に、俺は隈なく目線を走らせた。
しかし、というか、やはりというか、Aらしき姿はとんと見当たらなかった。
体にゾっと寒気がして鳥肌が立った。俺は束の間の放心の後、何となしに車から降りると、とりあえず気を落ち着かせようとタバコに火を点けた。
それからふと後輩たちの事を思い出し、つい今しがた別れたばかりのあ奴らの行方を目で追ってみた。
すると程無く、俺から数十m先にある長い駅の階段を、ラケットを差した大きなバッグを肩から提げたあの連中が、何やら言葉を交わしながら横一列に並んで上って行く姿を見つける事が出来た。
「駅の階段であんなに横に広がって・・・はた迷惑な奴らだなあ。」
俺の頭に何気無くそんな考えがよぎった。
が、次の瞬間、自分がその時目にしていた光景の孕むある矛盾が、またしても俺に寒気を覚えさせた。
俺がこの駅に下ろした後輩たちは、男二人に女一人。合わせて三人。
一方、その時横に並んで駅の階段を上って行った、大きなバッグをぶら下げた連中は、男三人に女一人。
合わせて四人いる・・・。
そいつらの姿は、すぐに俺の目線からの死角へと入り込んで行ってしまい、ほんのわずかの間、遠巻きに眺めていただけの状況では、男三人のうちの誰が余計だったのか、また、その余計な一人がたまたま後輩たちの側を歩いていただけの、見ず知らずの他人とはいえないのかどうか、実のところ俺にはよく分からなかった。
合宿から帰った翌々日の夕方、俺の車に同乗したうちの、女の後輩から電話があった。
彼女によると、あの時後部座席に乗っていた男の方の後輩が、あれからどうも気になってAの実家に電話したところ、実家への帰り道の途中、Aの車は大型トラックと衝突し、Aは重態となって地元近くの病院へ運ばれ、
懸命の処置が施されたが、事故から翌々日の午前中(つまり、俺がこの電話を受けた当日の午前中)に
ついに息を引き取ったという旨の知らせを、Aの親族から受けたというのだ。
うちに電話してきた女の子は、その最初に知らせを受けた後輩から、大学関係の友人にこの情報を回すよう頼まれたらしい。
実を言うと、合宿から帰った日、そしてその翌日と、俺も何度かAの実家に電話を掛けていたのだ。
さすがにあんな体験をした後では、Aがまだ生きてこの世にいるのかどうか疑わざるを得ないような気持ちだったからだ。
しかし、電話を掛ける度に先方は留守だったようで、誰も電話に出て来る事は無く、留守電もセットされていなかった。
というか、Aの実家での葬式に行って知った事だが、当時Aの実家の電話は留守録機能の無いただのダイヤル電話だった。
いずれにしても、この知らせを受けたおかげで、俺はAの実家が留守だった理由がよくわかった。
ただその後、おそらく大学の友人関係で最初にAの死を知らされたであろう、例の後輩の男が語ったところによると、合宿から帰った当日、そして翌日にも、俺と同じくその後輩は何度かAの実家に電話を掛けていたのだそうだが、合宿から帰った翌日の晩、一度だけAの実家に電話が繋がった事があったのだという。
その時の電話の音声は何故かやたら遠く、男の声で何やらいろいろ喋りかけてくるのはわかるのだが、
その内容はまるで聞き取る事が出来ず、そのうち電話は切れてしまい、受話器の向こうには断続する発信音が残るのみ。
その後輩はすぐに電話を掛け直したというが、その日はもう二度と電話が繋がる事は無かったそうだ。
葬式の際、奴がAの父親に確かめたところ、その日Aの両親はAの入った病院から戻っておらず、家は留守のままだったという。実際、俺も奴と同じような時間帯にAの実家へ電話を掛けていたが、前述したとおり、電話が繋がる事は無かった。
その後輩は、電話に出た声はAの声に似ていた気がするとも言っていた。
実際、電話が繋がっていた時は、相手はAだと思っていたそうだ。
合宿から帰った日、俺が駅で奴らと別れた直後にもAの声を聞いた事、そして、駅の階段を奴らと並んで上って行く者がいるのを見た事を話すと、奴はかなり驚き、動揺していた。
だが、その階段を上って行った時、奴ら三人の横に並んで歩く人がいたかどうかはよく憶えていないとの事だった。
結局、それ以降Aにまつわる不思議な体験は無いし、そういった出来事があったという話も聞いていない。
ここに書いた出来事は、いずれもAがまだ辛うじて生きていた間のものであり、故に、亡くなった後、Aが迷わず安らかに成仏してくれたものと、俺は思いたい。また、そうであって欲しいと願っている。
背後の気配
2008.08.11 (Mon) | Category : 誰も信じない人へ
もう終わり近くなってきたら内容が悲しくて号泣してしまったんです
そうしたらなぜか背後のほうで誰か泣いてるような気配がするんですよ
おれの部屋にはおれしかいないはずなのに
でもこの気配は誰か知ってる人のような気がすると思ったところでそれが誰なのかを思い出しましたね
5年前に事故で亡くなったあの子だって
「おれと一緒に泣いてる」
と思うとこれまた余計に泣けてくるもんなんですね
そのまま泣きながらゲームを終わらせて余韻に浸る間もなくなぜかわからないけどロード第二章を聞き始めました
そこでまた号泣ですよ
「こんなに泣いたのは何年ぶりだろう」
なんてふと考えるとなんとなく肩に手が置かれるような感触がありました
ある時そっとおれの肩へ手を置いてくれた時に感じた柔らかい手のひら
その感触のある辺りへおれはそっと手を伸ばして何年かぶりに彼女を感じることができました
少ししたら消えてしまったんですけどね
まぁこんなところですがその相手は片思いでしかなかったんですけどね
それでも好きだよって言えなかった気持ちからずっとひきずってはいました
背後で感じた気配や肩に置かれた手の感触は気のせいかもしれません
だけどおれにはなぜかそこにいるって確信が持てたんですね
今までこんなこと一度もなかったのに急にこんなことが起きたのは不思議に思います
今までおれのことを近くで見守っていたのかもしれないと思うと嬉しくなると同時におれが今までひきずっていたせいであっちへ行けなかったのかもしれないと少し申し訳なくもなりました
最後にこの場を借りて彼女へ「おれはもう大丈夫だからゆっくりおやすみ」と言いたいと思います
しばらく行けてなかった墓参りへも行こうと思います