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契り
2008.09.16 (Tue) | Category : 誰も信じない人へ
某サイトからコピペ
もう25年も遡った出来事ですが、思い出せば、今なお涙が出る話です。
当時わたしは18歳。高校を卒業し、大学に入って間もない5月のある日、 地元の総合病院で肝硬変の一歩手前と診断されたわたしは東京狛江にある大学病院を紹介され、その大学病院の内科病棟に入院して治療に専念しておりました。
入院生活も落ち着いた頃、わたしはひとりのフィリピン人ハーフの女の子に出会いました。
病棟には入院患者と見舞い客が懇談する場が病室以外にあります。その女の子はそこでひとり電話を掛けていました。
会話はほとんどが英語で、ところどころに英語以外と思われる単語が入ります。
今思えばそれはタガログ語だったに違いありませんが、その頃のわたしには知る由もありませんでした。
通話の途中で10円玉が無くなって困っている彼女に後ろからわたしがコインを差し出しました。
これが彼女との出会いになったわけであります。
通話を終えた彼女は、向き直ってわたしにあまり上手でない日本語で礼を言いました。
100円玉を出して返すと言いましたが、わたしは受け取りませんでした。
これをきっかけに、彼女は毎日のようにわたしの病室を訪れるようになり、 時には一日のうちのほとんどの時間をわたしの病室や屋上で一緒に過ごしました。
日本語と英語、それに時々タガログを交えた楽しい会話は尽きませんでした。
彼女は日本の外国人学校に通う19歳、病名は骨髄性白血病でわたしより早く数日前から入院していました。
会話の中でわたしはフィリピンという国を初めて知り、また知れば知るほど興味が深くなっていきました。
わたしは考えていました。退院したら一度フィリピンを訪れてみようと。
ある晴れた日に、病院の屋上で彼女はわたしに言いました。
現在は内科的な服薬治療をしているが近々に放射線治療を始めること。
これが始まると髪が抜けたり肌が荒れたりする副作用が出てくること。
そして・・・彼女がわたしを愛しているということ・・・。
そして彼女はわたしに尋ねます。あなたはわたしを愛しているか・・・?と。
わたしは迷うことなく、その時の自分の気持ちを彼女に伝えました。
わたしもあなたを愛している・・・。すると更に彼女はわたしに言いました。
わたしの体が放射線治療によって醜くなる前に、綺麗な体でいられるうちに抱いて欲しい・・・と。
彼女の母親とふたりで話しをする機会がありました。
彼女の母親はピュアなフィリピン人。
その母親は彼女からわたしの話をきいていたらしく、彼女の気持ちから話し始めました。
そして話しは彼女の病状へ・・・。
彼女はあと半年も生きられないことを聞かされたときはショックで目の前が真っ白になりました。
彼女の母親は言いました。できることなら、彼女の願いを叶えてあげて欲しい・・・。
わたしはその日、彼女の顔を見ることができませんでした。
眠れないその日の夜、わたしは階下の喫煙室でひとり缶コーヒーを片手にタバコを吸っていました。
そこへ彼女はやってきました。
わたしは黙って彼女を抱き寄せ、キスをしました。
キスをしながら溢れてくる涙。彼女も涙を流していました。
ふたり何度もキスを交わしながら、そのまま朝を迎えたのでした。
その頃、内科病棟のナースステーションでもわたし達のことは周知であり、 ふたりで一緒に同じ日の外出許可の申請を出したことに対しても、誰も何も言いませんでした。
ただ彼女の主治医がわたしのところへ来て言いました。
彼女はヴァージンだから出血があった場合すぐに止血しなければならない。
そして止血の仕方をわたしに教えてくれました。
それから外出日の前日から血小板の成分輸血を彼女にすること。
万一何かあったらすぐに病院に戻る手段を講じること。
そしてもうひとつ、決してふたりで死のうなんてことは考えるなと言われました。
そして外出当日、午前中に病院を出たわたしたちは久しぶりに街の人いきれを感じながら食事をし、 お茶を飲み、デート気分を味わいました。
そしてホテルへ入った私たちは抱き合い、キスを交わしてお互いを求め合いました。
裸になりベッドへ。
ヴァージンだった彼女は苦痛に耐えながらも愛の言葉を囁き、 経験不足だったわたしも何とか彼女の痛みを最小限に抑えられるよう努力しました。
案の定出血は夥しく、彼女の主治医に教わったとおりに止血しました。
彼女曰く、生理のときの処置と同じだそうです。
裸のままの彼女を抱きしめながら、このままずっと一緒にいられたら・・・と思いました。
どうすれば・・・と考えたとき、「心中」という言葉が始めてわたしの頭の中をよぎりました。
主治医が言っていた言葉の意味がこのときやっと理解できました。
それまで考えたことのなかった自分の死。
彼女に迫る死を感じながら自分もその時になったら一緒に行こうと思いました。
何かを感じたか彼女がポツリ、怖い・・・と洩らしました。
わたしたちはタクシーに乗って病院へ帰りました。
ナースステーションでは笑顔で迎えられ、医局から主治医も飛び出してくる始末。
みんな心配してくれていたそうです。
わたしは彼女の主治医に深く頭を下げました。
1週間後、わたしは退院することになりました。退院しても1日置きに通院しなければなりません。
彼女とナース達に見送られ、彼女には通院の度に病室に寄ることを約束して病院をあとにしました。
彼女は笑顔で見送ってくれました。
約束どおり、わたしは2日に1回の通院の度に彼女の病室を訪れました。
その度にキスを交わし熱く抱き合いました。そして心底彼女を愛している自分と愛されている自分を実感していました。
放射線治療が始まり、少しずつ容姿が変わってきた彼女ではありましたが、わたしにはそんなこと関係なかった。
ただひたすらに彼女を愛していました。
彼女の誕生日には大きな赤いバラの花束を持って行きました。
そんなバラに埋もれた彼女は力なく笑ってアリガトウ・・・と。
8月のある日の夜更け、自宅で寝ているわたしのところへ彼女はやってきました。
彼女の姿は出会った頃以上に生き生きと美しく輝いていました。
あぁ、もう大丈夫だ、と安心したとき、電話のベルが鳴り響きました。
その瞬間にわたしはすべてを悟りました。
電話に出ると彼女の母親が来てくれ、と危篤状態の彼女を説明しようとしています。
わたしはすぐに家を出ました。
タクシーの後部座席、わたしの隣りには彼女がわたしを見つめて微笑んでいる。
ふたりでたくさんの会話をしました。たくさんのキスもしました。
彼女はわたしに言いました。You must buhay...(あなたは生きて・・・)
病室の廊下では彼女の母親がわたしを待っていました。
病室のベッドには白い布を顔に掛けた彼女。
そっと布をはずすと、さっきまで一緒にタクシーに乗っていた彼女がそこに眠っていました。
わたしは彼女にキスをしました。
ディズニーのプリンセスはみんなこうすると目覚めるんですよね。
でも彼女は目覚めませんでした。
その後数十時間のわたしの記憶はありません。
未だに戻ってこない記憶の中でわたしは何を感じ、何を考え、どこで何をしていたのだろうかと今でも考えます。
彼女が亡くなった1年後、わたしはフィリピンはバギオの彼女の実家を訪れました。
彼女のお母さんは既に帰国してわたしの訪比を待っていました。
彼女の墓は小高い丘の上にありました。
花を手向け手を組むと同時にわたしは泣き崩れました。
そんなわたしの肩をそっと抱いてくれた彼女のお母さん。
お母さんの肩も震えていました。
そのときの彼女のお母さんの暖かさ、そしてそのまま抱きかかえられるように丘を下って着いた彼女の実家での家族親戚同居人の優しさとぬくもり。
四半世紀経った今でもそれだけは鮮明に覚えています。
もう25年も遡った出来事ですが、思い出せば、今なお涙が出る話です。
当時わたしは18歳。高校を卒業し、大学に入って間もない5月のある日、 地元の総合病院で肝硬変の一歩手前と診断されたわたしは東京狛江にある大学病院を紹介され、その大学病院の内科病棟に入院して治療に専念しておりました。
入院生活も落ち着いた頃、わたしはひとりのフィリピン人ハーフの女の子に出会いました。
病棟には入院患者と見舞い客が懇談する場が病室以外にあります。その女の子はそこでひとり電話を掛けていました。
会話はほとんどが英語で、ところどころに英語以外と思われる単語が入ります。
今思えばそれはタガログ語だったに違いありませんが、その頃のわたしには知る由もありませんでした。
通話の途中で10円玉が無くなって困っている彼女に後ろからわたしがコインを差し出しました。
これが彼女との出会いになったわけであります。
通話を終えた彼女は、向き直ってわたしにあまり上手でない日本語で礼を言いました。
100円玉を出して返すと言いましたが、わたしは受け取りませんでした。
これをきっかけに、彼女は毎日のようにわたしの病室を訪れるようになり、 時には一日のうちのほとんどの時間をわたしの病室や屋上で一緒に過ごしました。
日本語と英語、それに時々タガログを交えた楽しい会話は尽きませんでした。
彼女は日本の外国人学校に通う19歳、病名は骨髄性白血病でわたしより早く数日前から入院していました。
会話の中でわたしはフィリピンという国を初めて知り、また知れば知るほど興味が深くなっていきました。
わたしは考えていました。退院したら一度フィリピンを訪れてみようと。
ある晴れた日に、病院の屋上で彼女はわたしに言いました。
現在は内科的な服薬治療をしているが近々に放射線治療を始めること。
これが始まると髪が抜けたり肌が荒れたりする副作用が出てくること。
そして・・・彼女がわたしを愛しているということ・・・。
そして彼女はわたしに尋ねます。あなたはわたしを愛しているか・・・?と。
わたしは迷うことなく、その時の自分の気持ちを彼女に伝えました。
わたしもあなたを愛している・・・。すると更に彼女はわたしに言いました。
わたしの体が放射線治療によって醜くなる前に、綺麗な体でいられるうちに抱いて欲しい・・・と。
彼女の母親とふたりで話しをする機会がありました。
彼女の母親はピュアなフィリピン人。
その母親は彼女からわたしの話をきいていたらしく、彼女の気持ちから話し始めました。
そして話しは彼女の病状へ・・・。
彼女はあと半年も生きられないことを聞かされたときはショックで目の前が真っ白になりました。
彼女の母親は言いました。できることなら、彼女の願いを叶えてあげて欲しい・・・。
わたしはその日、彼女の顔を見ることができませんでした。
眠れないその日の夜、わたしは階下の喫煙室でひとり缶コーヒーを片手にタバコを吸っていました。
そこへ彼女はやってきました。
わたしは黙って彼女を抱き寄せ、キスをしました。
キスをしながら溢れてくる涙。彼女も涙を流していました。
ふたり何度もキスを交わしながら、そのまま朝を迎えたのでした。
その頃、内科病棟のナースステーションでもわたし達のことは周知であり、 ふたりで一緒に同じ日の外出許可の申請を出したことに対しても、誰も何も言いませんでした。
ただ彼女の主治医がわたしのところへ来て言いました。
彼女はヴァージンだから出血があった場合すぐに止血しなければならない。
そして止血の仕方をわたしに教えてくれました。
それから外出日の前日から血小板の成分輸血を彼女にすること。
万一何かあったらすぐに病院に戻る手段を講じること。
そしてもうひとつ、決してふたりで死のうなんてことは考えるなと言われました。
そして外出当日、午前中に病院を出たわたしたちは久しぶりに街の人いきれを感じながら食事をし、 お茶を飲み、デート気分を味わいました。
そしてホテルへ入った私たちは抱き合い、キスを交わしてお互いを求め合いました。
裸になりベッドへ。
ヴァージンだった彼女は苦痛に耐えながらも愛の言葉を囁き、 経験不足だったわたしも何とか彼女の痛みを最小限に抑えられるよう努力しました。
案の定出血は夥しく、彼女の主治医に教わったとおりに止血しました。
彼女曰く、生理のときの処置と同じだそうです。
裸のままの彼女を抱きしめながら、このままずっと一緒にいられたら・・・と思いました。
どうすれば・・・と考えたとき、「心中」という言葉が始めてわたしの頭の中をよぎりました。
主治医が言っていた言葉の意味がこのときやっと理解できました。
それまで考えたことのなかった自分の死。
彼女に迫る死を感じながら自分もその時になったら一緒に行こうと思いました。
何かを感じたか彼女がポツリ、怖い・・・と洩らしました。
わたしたちはタクシーに乗って病院へ帰りました。
ナースステーションでは笑顔で迎えられ、医局から主治医も飛び出してくる始末。
みんな心配してくれていたそうです。
わたしは彼女の主治医に深く頭を下げました。
1週間後、わたしは退院することになりました。退院しても1日置きに通院しなければなりません。
彼女とナース達に見送られ、彼女には通院の度に病室に寄ることを約束して病院をあとにしました。
彼女は笑顔で見送ってくれました。
約束どおり、わたしは2日に1回の通院の度に彼女の病室を訪れました。
その度にキスを交わし熱く抱き合いました。そして心底彼女を愛している自分と愛されている自分を実感していました。
放射線治療が始まり、少しずつ容姿が変わってきた彼女ではありましたが、わたしにはそんなこと関係なかった。
ただひたすらに彼女を愛していました。
彼女の誕生日には大きな赤いバラの花束を持って行きました。
そんなバラに埋もれた彼女は力なく笑ってアリガトウ・・・と。
8月のある日の夜更け、自宅で寝ているわたしのところへ彼女はやってきました。
彼女の姿は出会った頃以上に生き生きと美しく輝いていました。
あぁ、もう大丈夫だ、と安心したとき、電話のベルが鳴り響きました。
その瞬間にわたしはすべてを悟りました。
電話に出ると彼女の母親が来てくれ、と危篤状態の彼女を説明しようとしています。
わたしはすぐに家を出ました。
タクシーの後部座席、わたしの隣りには彼女がわたしを見つめて微笑んでいる。
ふたりでたくさんの会話をしました。たくさんのキスもしました。
彼女はわたしに言いました。You must buhay...(あなたは生きて・・・)
病室の廊下では彼女の母親がわたしを待っていました。
病室のベッドには白い布を顔に掛けた彼女。
そっと布をはずすと、さっきまで一緒にタクシーに乗っていた彼女がそこに眠っていました。
わたしは彼女にキスをしました。
ディズニーのプリンセスはみんなこうすると目覚めるんですよね。
でも彼女は目覚めませんでした。
その後数十時間のわたしの記憶はありません。
未だに戻ってこない記憶の中でわたしは何を感じ、何を考え、どこで何をしていたのだろうかと今でも考えます。
彼女が亡くなった1年後、わたしはフィリピンはバギオの彼女の実家を訪れました。
彼女のお母さんは既に帰国してわたしの訪比を待っていました。
彼女の墓は小高い丘の上にありました。
花を手向け手を組むと同時にわたしは泣き崩れました。
そんなわたしの肩をそっと抱いてくれた彼女のお母さん。
お母さんの肩も震えていました。
そのときの彼女のお母さんの暖かさ、そしてそのまま抱きかかえられるように丘を下って着いた彼女の実家での家族親戚同居人の優しさとぬくもり。
四半世紀経った今でもそれだけは鮮明に覚えています。
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菩薩のお言葉
2008.09.14 (Sun) | Category : 誰も信じない人へ
長くなりますが…。
私の娘四歳になるのですが…超未熟児で産まれました。
妊娠半年に入る頃 体重670グラムで 手のひら程の大きさで誕生しました。
このまま生きていけるのかと 本当に心配でした。
三ヶ月の間保育機の中で娘は過ごしました。
二ヵ月経ったある日 主治医に呼ばれました。
主治医によると 右脳の小さな血管が切れてしまったとの事でした…。
左半身に麻痺が残るといわれ愕然としました。
100%戻る事はないけど 近いところまでは リハビリで戻せるとの事でした。
もともと医者には まともに産まれて育つ可能性は 10%もないと言われていたので 妻と私は生きてるだけでいいんだからと 胸を撫で下ろしました。
そしてもうすぐ退院とゆう時に医者から 娘が未熟児網膜症にかかってると言われ 手術をしなければ失明すると告げられました。
両目とも 網膜症になっていたので 計二回の手術を行う事となりました。
まずは 右目から…右目の手術は進行が激しく失敗してしまい 左目に全てを賭けました。
私達家族は 夢中で左目の手術が行われる その時まで神に祈りました。無我夢中で必死に 神にそして奇跡が起こる事を夢中で祈りました。
と、その時です。私は一瞬にして眠りに落ちました。
気がつくと フワフワとした雲の上にでもいるような 一面真っ白な場所に私は立っていました。
正面を向くと そこには堂々と神々しくそして眩しく 菩薩様が立っていました。
菩薩の高さは 顔まではっきり確認出来ないほど高く ましてマジマジ見る事が出来ないくらい光を放っていたんです。
なんていうのか 自分の中身 頭のなか 全てを見透かされてるような 恥ずかしく 自分の事がとても小さく思えたのです。
そして ソレは聞こえてきたのです。
耳で聞いたとゆうよりは 私の魂に問い掛けてきたっていうのが 正確だと思います。
菩薩は こう言いました…難しい言葉でしたが 意味は解りました。
私の娘の名を仮に アイナとさせて頂きます。
菩薩『アイナは一生懸命生きようとしている…それなのに 何故 眼が見えて欲しいだのと己の欲ばかり押しつける?
汝が願う事は アイナが願ってる事なのか?
イヤ 違う!!それは 汝の見栄や欲ではないのか!?
今 眼の手術が成功したところで 汝の願いは留まる事を知らぬ!!
全てを受けとめよ…全ては起こるべきして 起こった事なのだ…受けとめよ。
アイナは 生きようとしている 見守るのだ。…』
と言われ すべて 見透かされた私は 自分を恥じたよ。
娘が 眼が見えなくて障害を持つ事に激しく動揺し そして 周りの眼を考えてた私は 娘が必死に生きようとしてる事を見ていなかったのだと 激しく痛感した。ただ ただ自分の事を情けなく思えた。
深く反省しつつ菩薩の姿から 眼を下ろしました。
眼を何げに先に向けると 4、5歳ぐらいの女の子が鞠をついて遊んでいました。
しかし その子は 眼が見えないらしく 上手く鞠をつけず 何度も鞠を遠くに飛ばし一生懸命探してまた 鞠をつき始めるのです…その表情はとても楽しそうで 幸せそうでした。
そして 私は目が覚めたのです。
この間 ホンの2、3秒の話しです。
今娘は四歳で全盲です。
それでも 周りの子と変わらず 明るく歌が好きで笑顔の可愛いお転婆娘です!!
あの時見た 鞠をついていた女の子 今四歳の娘そのものです。
長文 乱文失礼しました。読んでくれた方ありがとうございました。
私の娘四歳になるのですが…超未熟児で産まれました。
妊娠半年に入る頃 体重670グラムで 手のひら程の大きさで誕生しました。
このまま生きていけるのかと 本当に心配でした。
三ヶ月の間保育機の中で娘は過ごしました。
二ヵ月経ったある日 主治医に呼ばれました。
主治医によると 右脳の小さな血管が切れてしまったとの事でした…。
左半身に麻痺が残るといわれ愕然としました。
100%戻る事はないけど 近いところまでは リハビリで戻せるとの事でした。
もともと医者には まともに産まれて育つ可能性は 10%もないと言われていたので 妻と私は生きてるだけでいいんだからと 胸を撫で下ろしました。
そしてもうすぐ退院とゆう時に医者から 娘が未熟児網膜症にかかってると言われ 手術をしなければ失明すると告げられました。
両目とも 網膜症になっていたので 計二回の手術を行う事となりました。
まずは 右目から…右目の手術は進行が激しく失敗してしまい 左目に全てを賭けました。
私達家族は 夢中で左目の手術が行われる その時まで神に祈りました。無我夢中で必死に 神にそして奇跡が起こる事を夢中で祈りました。
と、その時です。私は一瞬にして眠りに落ちました。
気がつくと フワフワとした雲の上にでもいるような 一面真っ白な場所に私は立っていました。
正面を向くと そこには堂々と神々しくそして眩しく 菩薩様が立っていました。
菩薩の高さは 顔まではっきり確認出来ないほど高く ましてマジマジ見る事が出来ないくらい光を放っていたんです。
なんていうのか 自分の中身 頭のなか 全てを見透かされてるような 恥ずかしく 自分の事がとても小さく思えたのです。
そして ソレは聞こえてきたのです。
耳で聞いたとゆうよりは 私の魂に問い掛けてきたっていうのが 正確だと思います。
菩薩は こう言いました…難しい言葉でしたが 意味は解りました。
私の娘の名を仮に アイナとさせて頂きます。
菩薩『アイナは一生懸命生きようとしている…それなのに 何故 眼が見えて欲しいだのと己の欲ばかり押しつける?
汝が願う事は アイナが願ってる事なのか?
イヤ 違う!!それは 汝の見栄や欲ではないのか!?
今 眼の手術が成功したところで 汝の願いは留まる事を知らぬ!!
全てを受けとめよ…全ては起こるべきして 起こった事なのだ…受けとめよ。
アイナは 生きようとしている 見守るのだ。…』
と言われ すべて 見透かされた私は 自分を恥じたよ。
娘が 眼が見えなくて障害を持つ事に激しく動揺し そして 周りの眼を考えてた私は 娘が必死に生きようとしてる事を見ていなかったのだと 激しく痛感した。ただ ただ自分の事を情けなく思えた。
深く反省しつつ菩薩の姿から 眼を下ろしました。
眼を何げに先に向けると 4、5歳ぐらいの女の子が鞠をついて遊んでいました。
しかし その子は 眼が見えないらしく 上手く鞠をつけず 何度も鞠を遠くに飛ばし一生懸命探してまた 鞠をつき始めるのです…その表情はとても楽しそうで 幸せそうでした。
そして 私は目が覚めたのです。
この間 ホンの2、3秒の話しです。
今娘は四歳で全盲です。
それでも 周りの子と変わらず 明るく歌が好きで笑顔の可愛いお転婆娘です!!
あの時見た 鞠をついていた女の子 今四歳の娘そのものです。
長文 乱文失礼しました。読んでくれた方ありがとうございました。
お祖父ちゃんからの電話
2008.09.13 (Sat) | Category : 誰も信じない人へ
いい話かどうかわかりませんが…
私のお祖父ちゃんは長い間難病に苦しんでいたんですが、そんな自分の事よりも不仲な息子兄弟(私の父と叔父)の心配してたんです。
でも父達が仲違いしたままとうとうお祖父ちゃんは死んでしまって、お葬式が終わった後の事です。
みんな気が抜けてぼんやりしていたら、近所の人が電話してるんだけど、ずっと話し中になったままだから受話器外れてるんじゃない?と言いに来てくれたんです。うちの母が受話器を置き直したんですけど、やっぱり話し中になったまま。
母が不思議に思って受話器に耳を当ててみると、ぼそぼそと何か聞こえます。ん?と思いよく聞いてみると、なんと死んだはずのお祖父ちゃんの声ではありませんか(神経の病気だったので震えて小さい声で分かりやすいんです)
お祖父ちゃんはしきりに棚が棚がと繰り返し、電話はすぐに切れてしまいました。
母はすぐに生前お祖父ちゃんがいつもいた座椅子の後ろの棚をひっくり返してみると、お祖父ちゃんの手紙が出てきたんです。
手が震えて文字なんて書ける状態じゃなかったのに、仲の悪い父と叔父の事や親族のみんなの事からペットの犬の事、盆栽の事まで、便せん3枚にも綴られていて、お祖父ちゃんの優しさに本当に感動しました。
お祖父ちゃんはやっぱり最後までお祖父ちゃんやったね~と思わずみんな笑ってしまいました。
私のお祖父ちゃんは長い間難病に苦しんでいたんですが、そんな自分の事よりも不仲な息子兄弟(私の父と叔父)の心配してたんです。
でも父達が仲違いしたままとうとうお祖父ちゃんは死んでしまって、お葬式が終わった後の事です。
みんな気が抜けてぼんやりしていたら、近所の人が電話してるんだけど、ずっと話し中になったままだから受話器外れてるんじゃない?と言いに来てくれたんです。うちの母が受話器を置き直したんですけど、やっぱり話し中になったまま。
母が不思議に思って受話器に耳を当ててみると、ぼそぼそと何か聞こえます。ん?と思いよく聞いてみると、なんと死んだはずのお祖父ちゃんの声ではありませんか(神経の病気だったので震えて小さい声で分かりやすいんです)
お祖父ちゃんはしきりに棚が棚がと繰り返し、電話はすぐに切れてしまいました。
母はすぐに生前お祖父ちゃんがいつもいた座椅子の後ろの棚をひっくり返してみると、お祖父ちゃんの手紙が出てきたんです。
手が震えて文字なんて書ける状態じゃなかったのに、仲の悪い父と叔父の事や親族のみんなの事からペットの犬の事、盆栽の事まで、便せん3枚にも綴られていて、お祖父ちゃんの優しさに本当に感動しました。
お祖父ちゃんはやっぱり最後までお祖父ちゃんやったね~と思わずみんな笑ってしまいました。
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