都市伝説・・・奇憚・・・blog
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丑の刻参り
2009.03.22 (Sun) | Category : 人を信じすぎる人へ
私の大学時代の友人Yの実体験談です。
大学に入って上京するまでYは広島県三原市に住んでいました。
結構ヤンチャもしていた様で、しばしば夜中に友達と連れ立って遊び歩いたりもしていたそうです。
ある時、よく丑の刻参りが行われているという神社の噂を聞き付け、そこそこオカルト好きなところがあったYは
ヤンチャに任せて友達と二人で現場を押さえに行ったそうです。
真夜中に件の神社につくと、果たして釘を打つ音が聞こえる。
どんな奴が呪いの儀式なんかやってやがるんだという好奇心からこっそりと境内に侵入し、音源を探すと、
本当に白装束の女が藁人形に釘を打っていたそうです。
Yは丑の刻参りについてある程度の知識があったので、その格好がかなり本格的なものである事が分かり、
「ヤバイ、モノホンだ」
と感じてその場を離れようとしました。
その刹那、勘付いたらしく女はY達の方を振り向き、凄い勢いで彼ら目掛けて走って来たそうです。
魂消たYはサンダル履きだった友達に構わず全力で逃げ、友達も走り難いサンダルを脱ぎ捨てる事で逃げのびました。
Yと違い、友達の方は覗きが見つかった程度の認識だったので、
「お前、マジに逃げすぎ」
とYを小馬鹿にし、明るくなると脱ぎ捨てたサンダルを拾いに行きました。
サンダルは、藁人形が打ちつけられていた杉の木に常軌を逸した滅茶苦茶さで釘打たれていたそうです。
大学に入って上京するまでYは広島県三原市に住んでいました。
結構ヤンチャもしていた様で、しばしば夜中に友達と連れ立って遊び歩いたりもしていたそうです。
ある時、よく丑の刻参りが行われているという神社の噂を聞き付け、そこそこオカルト好きなところがあったYは
ヤンチャに任せて友達と二人で現場を押さえに行ったそうです。
真夜中に件の神社につくと、果たして釘を打つ音が聞こえる。
どんな奴が呪いの儀式なんかやってやがるんだという好奇心からこっそりと境内に侵入し、音源を探すと、
本当に白装束の女が藁人形に釘を打っていたそうです。
Yは丑の刻参りについてある程度の知識があったので、その格好がかなり本格的なものである事が分かり、
「ヤバイ、モノホンだ」
と感じてその場を離れようとしました。
その刹那、勘付いたらしく女はY達の方を振り向き、凄い勢いで彼ら目掛けて走って来たそうです。
魂消たYはサンダル履きだった友達に構わず全力で逃げ、友達も走り難いサンダルを脱ぎ捨てる事で逃げのびました。
Yと違い、友達の方は覗きが見つかった程度の認識だったので、
「お前、マジに逃げすぎ」
とYを小馬鹿にし、明るくなると脱ぎ捨てたサンダルを拾いに行きました。
サンダルは、藁人形が打ちつけられていた杉の木に常軌を逸した滅茶苦茶さで釘打たれていたそうです。
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裏のパン屋
2009.03.11 (Wed) | Category : 人を信じすぎる人へ
うちの死んだじいさんは軍人あがりで腕力でブイブイ物いわすタイプで
妻や娘たちにも何か気に入らないと殴る蹴る罵る。酒乱。競馬パチンコ狂。
婆さんはぶたれて鼻が曲がっても、はいはいと黙って従う従順な妻だった。
それでも年をとったら大人しくなり、娘(あたいのママ含)たちも嫁ぎ、平穏な日々を送っていた。
が、ある日夕方頃突然、強烈な頭痛に見舞われた(脳内出血だったの)。
「痛い…痛い…」
と苦しむ爺さんを見て、(普通は救急車を呼ぶレベル)
婆さん一言
「あらまあ、じゃあ今日は早めに寝てくださいね」
深夜、爺さんは
「きゅ、救急車を呼んでくれ」
一緒に住んで回りの世話をしていた末娘が言った。
「おじいさん、救急車は今の時間は営業してないわよ」
未明頃、爺さんは意識不明に陥った。そこで婆さんがいうことには
「救急車は朝の11時からですよ。裏のパン屋も11時だから病院もきっとそのくらい」
で、昼頃救急車を呼んだ結果、おじいさんは手遅れで。(以下略)
この話、末娘(あたいのおばさん)と婆さんが、ようかんと茶飲みながら楽しそうに話していたんだ。
当時小学生だったあたいは
「こいつら馬鹿?」
って思ったけど今から考えたら…。
妻や娘たちにも何か気に入らないと殴る蹴る罵る。酒乱。競馬パチンコ狂。
婆さんはぶたれて鼻が曲がっても、はいはいと黙って従う従順な妻だった。
それでも年をとったら大人しくなり、娘(あたいのママ含)たちも嫁ぎ、平穏な日々を送っていた。
が、ある日夕方頃突然、強烈な頭痛に見舞われた(脳内出血だったの)。
「痛い…痛い…」
と苦しむ爺さんを見て、(普通は救急車を呼ぶレベル)
婆さん一言
「あらまあ、じゃあ今日は早めに寝てくださいね」
深夜、爺さんは
「きゅ、救急車を呼んでくれ」
一緒に住んで回りの世話をしていた末娘が言った。
「おじいさん、救急車は今の時間は営業してないわよ」
未明頃、爺さんは意識不明に陥った。そこで婆さんがいうことには
「救急車は朝の11時からですよ。裏のパン屋も11時だから病院もきっとそのくらい」
で、昼頃救急車を呼んだ結果、おじいさんは手遅れで。(以下略)
この話、末娘(あたいのおばさん)と婆さんが、ようかんと茶飲みながら楽しそうに話していたんだ。
当時小学生だったあたいは
「こいつら馬鹿?」
って思ったけど今から考えたら…。
沈没船の死体
2009.03.04 (Wed) | Category : 人を信じすぎる人へ
うーむ、さっき吉村昭の「海の柩」を読んだのだが怖かった・・・。
後書きから考えて、実際にあった話だと思う。
太平洋戦争末期、北海道の漁村に、ある日たくさんの日本兵の水死体が流れ着いた。
数は500体近く。どうやら兵士を満載した輸送船がアメリカの潜水艦に攻撃され、沖合い
で沈没したらしい。死体の中に将校のものは無かった。将校たちは救命艇で脱出できたらしい。
死体を収容していた漁師たちは、奇妙なことに気づいた。腕のない死体がかなり混じっているのだ。手首の欠けているものもあれば、上膊部から失われているものもある。海水に洗われて血はにじみ出ていなかったが、鋭利なもので断ち切られたように断面は平らだった。
中には片腕がない上に、顔面に深々と裂傷の刻まれているものもある。船から海中に飛びこんだ
折に出来た傷かとも思えたが、死体の半ば以上が腕を切り落とされていることは異様だった。
(筆者が生き残りのKから話を聞くシーン)
「切りましたか?」
私はたずねた。
「なにをですか?」
かれは、いぶかしそうに私を見つめた。
「兵士の腕です」
男は、一瞬放心したような眼をした。徐ろに視線を落としたが、あげた顔には
妙な笑いが薄くただよっていた。
「私は、切りませんよ。暗号書を抱いて舟艇の真中に座っていたのですから・・・。
かれの微笑は深まった。
「切った将校もいたのですね」
と、私。
「いました」
と、彼。
「船につかまってくるからですか」
と、私。
「船べりに手が重なってきました。三角波にくわえて周囲から手で押されるので、舟艇は激しくゆれました。乗ってくれば沈むということよりも、船べりをおおった手が、恐ろしくてなりませんでした。海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の舟艇がはさまってました。他の舟艇で、将校が一斉に軍刀をぬき、私の乗っていた船でも、軍刀がぬかれました。手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか?」
「靴で蹴っただけです」
男は、かすかに眉をしかめた。
「腕を切られた兵士は、沈んでいきましたか」
「そうです。しかし、そのまま泳いでいる者もいました」
「兵士たちは、なにか言いましたか?」
私は、たずねた。
男は、口をつぐんだ。微笑がこわばった。フィルターつきの煙草を手にしたが、火はつけなかった。
男が、口を開いた。
「天皇陛下万歳、と叫んでいました」
私は、ノートをとる手をとめて、男の顔を見つめたが、窓の外に視線をそらせた。
後書きによると、その後この事件についてNHK・ドキュメンタリーが企画され、吉村氏はプロデューサーからK氏の住所と名前を教えて欲しいと何度も懇願されたが、口をつぐみ続けたらしい。取材のため老漁師に話を聞いたときも、終戦から25年もたっているのに、憲兵に口止めされているからといってなかなかしゃべってくれなかったそうだ・・・
吉村昭では、他に「総員起シ」もおすすめ。戦争中、瀬戸内海で訓練中の潜水艦が沈没、102人が死んだ。9年後に潜水艦を引き上げたのだが、艦内には水の進入を免れた区画があり、当時のままの姿で保存されていたのだ・・・。
後書きから考えて、実際にあった話だと思う。
太平洋戦争末期、北海道の漁村に、ある日たくさんの日本兵の水死体が流れ着いた。
数は500体近く。どうやら兵士を満載した輸送船がアメリカの潜水艦に攻撃され、沖合い
で沈没したらしい。死体の中に将校のものは無かった。将校たちは救命艇で脱出できたらしい。
死体を収容していた漁師たちは、奇妙なことに気づいた。腕のない死体がかなり混じっているのだ。手首の欠けているものもあれば、上膊部から失われているものもある。海水に洗われて血はにじみ出ていなかったが、鋭利なもので断ち切られたように断面は平らだった。
中には片腕がない上に、顔面に深々と裂傷の刻まれているものもある。船から海中に飛びこんだ
折に出来た傷かとも思えたが、死体の半ば以上が腕を切り落とされていることは異様だった。
(筆者が生き残りのKから話を聞くシーン)
「切りましたか?」
私はたずねた。
「なにをですか?」
かれは、いぶかしそうに私を見つめた。
「兵士の腕です」
男は、一瞬放心したような眼をした。徐ろに視線を落としたが、あげた顔には
妙な笑いが薄くただよっていた。
「私は、切りませんよ。暗号書を抱いて舟艇の真中に座っていたのですから・・・。
かれの微笑は深まった。
「切った将校もいたのですね」
と、私。
「いました」
と、彼。
「船につかまってくるからですか」
と、私。
「船べりに手が重なってきました。三角波にくわえて周囲から手で押されるので、舟艇は激しくゆれました。乗ってくれば沈むということよりも、船べりをおおった手が、恐ろしくてなりませんでした。海面は兵の体でうずまり、その中に三隻の舟艇がはさまってました。他の舟艇で、将校が一斉に軍刀をぬき、私の乗っていた船でも、軍刀がぬかれました。手に対する恐怖感が、軍刀をふるわせたのです。切っても切っても、また新たな手がつかまってきました」
「あなたは、なにもなさらなかったのですか?」
「靴で蹴っただけです」
男は、かすかに眉をしかめた。
「腕を切られた兵士は、沈んでいきましたか」
「そうです。しかし、そのまま泳いでいる者もいました」
「兵士たちは、なにか言いましたか?」
私は、たずねた。
男は、口をつぐんだ。微笑がこわばった。フィルターつきの煙草を手にしたが、火はつけなかった。
男が、口を開いた。
「天皇陛下万歳、と叫んでいました」
私は、ノートをとる手をとめて、男の顔を見つめたが、窓の外に視線をそらせた。
後書きによると、その後この事件についてNHK・ドキュメンタリーが企画され、吉村氏はプロデューサーからK氏の住所と名前を教えて欲しいと何度も懇願されたが、口をつぐみ続けたらしい。取材のため老漁師に話を聞いたときも、終戦から25年もたっているのに、憲兵に口止めされているからといってなかなかしゃべってくれなかったそうだ・・・
吉村昭では、他に「総員起シ」もおすすめ。戦争中、瀬戸内海で訓練中の潜水艦が沈没、102人が死んだ。9年後に潜水艦を引き上げたのだが、艦内には水の進入を免れた区画があり、当時のままの姿で保存されていたのだ・・・。
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