都市伝説・・・奇憚・・・blog
家に火をつける
2010.07.16 (Fri) | Category : 人を信じすぎる人へ
3年前の事です、私は妻と長男3歳と温泉宿に一泊旅行に行ったのでした。
夕食前に大浴場で一風呂浴びて・・・
妻が出てくるのを長男と宿屋のお土産コナーで待っていた時の事です。
『家に火をつけるわよ・・・』
と言う声を聞いたのです。
ふと、私が声がしたあたりを見回すと男女が二人たっていました。
どうやら、女の人が男の人に言ったセリフのようでした。
私が聞き耳を立てると案の定、別れる別れないの痴話ゲンカをしていたのです。
私が野次馬根性を出してしまってもう少し聞きたいと耳を澄ますと・・・
男の人が
「おい!人が見てるだろう!!!」
と女の人を諭したのでした。
私は恥ずかしくなって何事も無かったかの様にその場を立ち去ろうとしたのですが・・・
一瞬!女の人が鋭い目つきで私を睨み付けているのに気付きました。
美人は美人なのですが思いつめていると言うか何というか非常に怖いと感じました。
(あんな鬼みたいな顔じゃ、男も逃げるな~)
と思いながらその場を後にしたのです。
そして何事も無く楽しい旅行を終え次の日曜日の事です・・・
妻が不審な女性が家の前をウロウロしていると言います。
私が外に出ると女性はあっという間に姿を消しました。
次の日曜日にもやはり女性がウロウロしています。
私は裏口から周り女性に気付かれないように遠回りして女性の背後から
「何をしてるんだ!!!」
と怒鳴ると女性は驚いて振り返りました・・・
そう、あの時の女性だったのです。
今度は私が驚く番でした。
私が一瞬固まってしまった間に、女性は風の様に逃げて行きました。
私は家に入ると妻に宿での出来事と、その時の女性がうちの玄関前をウロウロしていた事を話しました。
妻も驚き、そして恐れます。
「なんで、ウチに?ウチには小さな子もいるのに?もしかして危ない人?」
その時はとにかく落ち着いて様子を見ようと言う事にしました。
平日も注意して家の周りを見ていたのですが・・・
やはり、次の日曜日に再び玄関前に女性が現れました。
いくら危なそうな人でも、相手が女性と言うのもあり・・・
また、私自身が剣道の有段者でもあったのでゴルフクラブのアイアンを手に持ちいかにもゴルフの練習をしていたフリをして女性に声を掛けました。
「何かようですか?」
言葉とは裏腹に厳しく詰問するように言い放ちました。
すると女性は玄関越しに私を睨み付けます・・・
その目の怖いこと、怖いこと
私はマジで足が震えてしまいました。
しばらく睨み合っていましたが私がついに我慢できなくなって目を逸らすと女性はまた風の様にどこかへ逃げて行きました。
家に倒れ込む様に逃げ込むと窓から覗いていた妻も青い顔で出迎えます。
私たちは、すぐに泊まった宿に電話して女性の事を聞いたのです。
フロントの係りの人は
「他のお客様の情報はお教えできません。」
の一点張りでしたが、事情を話しそして教えてくれないと警察に訴えると脅すと支配人の方に代わってくれました。
支配人に改めて事情を話すと・・・
しっかりした宿なのでしょう、不審な男女の二人組の事を覚えておられました。
支配人は他のお客様の情報は教えられないが、宿のほうから二人の客の方に連絡を取ってみますと言ってくれました。
安心して電話を切ったのですが・・・
しばらくすると宿から電話がありました。
そして支配人が言うには男女二人組の宿帳に書かれた住所も電話番号もデタラメだったと言うのです。
次の日、会社の上司に相談すると上司はすぐに警察に行こうと言います。
警察が頼りになるだろうか?と私が首をかしげると上司は
「俺も一緒に行ってやる。」
と言いまして、勤務中だったのですが一緒に警察署に来てくれました。
生活防犯課の初老の刑事さんが真剣に私の話を聞いてくれ、また、上司も私が小さな事で大騒ぎする人間ではないと言ってくれました。
刑事さんは
玄関前の道をウロウロしているだけでは事件にならないが今度の日曜日は散歩がてら私の家の前に来てくれると約束してくれました。
次の日曜日
外に出るのも怖くて家の中で家族でジッとしていますと電話が鳴ります。
あの刑事さんからで
「今玄関の前に立っている女性がその女性か?」
と聞きました。
私がコードレスフォン片手に二階に上がり・・・
(怖かったのでこっそり見ようと思って。)
カーテン越し玄関を盗み見すると・・・
やっぱりあの女性が立っていました。
「私がそうですあの女性です。」
と刑事さんに言いますと、
「そのまま家から出ないで。」
と刑事さんは言って電話を切りました。
30分くらい待ったでしょうか・・・
玄関が少し騒がしいと思って再び玄関を覗き見ると白い乗用車に女性が押し込められているところでした。
後日、あの刑事さんが詳しい事を話してくれました。
女性は車で2時間以上離れた所に住んでいたのだそうです。
そして、毎週、仕事が休みの日曜日に我が家を訪れていたのです。
その内容をまとめますと
女性は妻子ある男性と不倫の関係にあり。
別れ話のもつれからその男性を殺してしまおうと考えていたようです。
ところが、私がその話を盗み聞きしてしまったのでなぜか女性は、まず私を殺してしまおうと考えたのでした。
どうして、我が家の住所が判ったのか?
なんと女性は私達家族が宿から出てくるの追けていたそうなのです。
帰りの電車の中で幸せそうな私達の家族を見て不倫関係でドロドロした自分とのギャップに女性は私達の家族に対して強い殺意を感じていたそうです。
その後、女性の弁護士さんが見えられました。
弁護士さんはやんわりと女性は精神に問題があるので告訴しても私達に勝ち目は無いので見舞金を黙って受け取り示談にして欲しいと言いいます。
良くしてくれた刑事さんも職務上、民事の助言は出来ないが、独り言として
「自分なら弁護士の言う通りにする。」
と言われたので黙って見舞金を受け取りました。
女性は今、精神科の病気療養中で
刑事さんは
「再び女性の姿を見たら即座に警察に連絡しなさい。」
と言いました。
誰が何と言おうと私達に取って洒落にならない話です。
舌を失う
2010.07.16 (Fri) | Category : 人を信じすぎる人へ
霊的な話は怖いというか、嫌いだし、、これも霊的な話じゃない。
ただ、こんな話があったということなんだが、書き込んでみる。
ただし、グロ注意なので、グロ話が嫌いな人は読み飛ばして欲しい。
特定を避けるためにフェイクを入れてある。
自分はボランティアでとある施設を定期的に訪問しているんだけれども、そこで19歳のA子と会った。
A子は、舌を失っていて、普通のやり方では口頭による意思疎通ができない。
自分もそれほどうまいわけじゃないけれども、手話は一応できて、A子も手話がそこそこできるので、何とか意思疎通ができた。
そんなA子から聞いた話。
A子は、県内の漁村で育って、割とその漁村は豊かなんだけれども、A子の家では父親が漁に出て行方不明になり、母親とA子は幼いころから海草を拾って市場で売って、何とか糊口を凌いでいたらしい。
A子の母は病弱で、海女になることもできず、夫(A子の父親)が行方不明になってから、伏せっていることが多かった。
A子の父親の姉(A子の伯母)が海草拾いやら加工を多く押し付けて、A子母が具合が悪かったのに病院にもかからせてもらえなくて、とうとう息を引き取ったが、A子はあばら家で昆布の加工作業をやらされていた。
A子は、学校にも行かせてもらえず、黙々と昆布を鋏で縦に細かく切り裂く作業をやらされていたのだが、作業量が多くてこなしきれず、いつも伯母に罵倒されて、殴られ、蹴られていた。
ある時A子が伯母に怒られまいとして必死で与えられた量の昆布を切っていると、成果品を取りに来た伯母が叫び声を上げて飛び出して行った。
それからA子母親の親類が他県からやって来たり、行政機関が訪問したりして、大変だったらしい。
何でもA子は昆布ではなく、自分の口の中に鋏を入れて細かく切り裂いていたとのこと。
畳の上は血の海で、無心に口の中に鋏を突っ込んで動かしていたらしい。
結果としてA子は福祉施設に措置されることになった。
A子には保護されるまでの記憶が一切なく、これらは施設の職員から聞いた話だという。
それを笑顔で手話で話してくれた。
これでA子が実は今自分の隣にいる妻ですとか言うとそれなりの話になるんだが、そういうわけでもない。
A子はきちんとした教育を受けたことがなく、書くことが苦手だ。
ただ、インターネットの掲示板を読むのは好きらしくて、代理でA子の体験を書いてくれと言われた。
どこに書いたらいいのかは全く見当がつかなかったのだが、施設の職員からここはどうだろうかと言われて、2chでは他板には書き込んだことはあるが、自分はオカルト板には初めて代筆で書き込むことになった。
まあ、こんな話があるということで。
このスレの他の話をちょっと読んでみたら、何だかちょっと毛色が違うような気がするのだけれども。
欲
2010.07.13 (Tue) | Category : 人を信じすぎる人へ
491 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:03/06/06 01:08
チャールズ・チャップリンの代表作《黄金狂時代》を再見する諸君は、その残酷なテーマに驚かされることだろう。
「欲」をテーマにしたこのブラックコメディは、雪山で飢えたチャップリンが己れの革靴を茹でて食べるシーンで笑いのピークを迎える。
子供心に旨そうだなあと思ったあの靴は、実は海藻で作られたものだったとの説もあるが、当時の妻リタ・グレイによれば、本物の靴であったらしい。
撮影を終えたチャップリンは腹痛を訴え、そのために撮影は1週間中断されたという。
しかし、いくらチャップリンが完全主義者だったとはいえ、何故に健康を害してまで本物の靴を食べる必要があったのだろうか?。その答えは、ロケ地となったネバタ州トラッキー湖畔にあると私は考えている。
この地はかつてドナー隊が遭難した場所。チャップリンはおそらく彼らに敬意を表したのだろう。
もっとも、飢餓に陥った彼らは靴は食べなかった。
人を食べたのである。
大西洋を越え東海岸から新大陸に上陸した開拓者たちは、天候に恵まれた西海岸に入植するためには何千マイルもの旅をしなければならなかった。長い旅路には様々な障碍が待ち受ける。
インディアンの襲撃。
無法者たちの略奪。
しかし、そびえ立つシエラネバダの山々こそが最大最悪の難関であった。
山を越せるのは雪の溶けた夏だけだ。
そのためシーズンともなれば移住者を満載した馬車が列をなす。
ジョージ・ドナー率いる総勢87名のドナー隊も「約束の地」カリフォルニア目指して旅立った。
しかし、彼らは季節を間違えた。遅すぎたのである。
1846年8月、ドナー隊はイリノイを後にした。ただでさえ遅い出発であったにも拘わらず、彼らの馬車を牽くのは馬ではなく牛。
ノロノロとした砂漠の旅は困難を極め、ユタの砂漠を横断する過程で、既に5人が命を落とした。
ようやく山々が見え始めたのは10月下旬のこと。冬はもうそこにまで来ている。
この時期の山越えは自殺行為だ。
しかし、砂漠とシエラネバダに挟まれて進退極まったドナーは敢えて山越えを選ぶ。
この山さえ越えれば、そこはもう「約束の地」だからである。
10月30日、案の定、ドナー隊は遭難する。
場所は標高2000メートルのトラッキー湖畔。
吹雪が凄まじく、馬車は雪に埋まり、もうこれ以上先に進むことは出来なくなったのである。
詮方なく、隊はここで冬を越す羽目となる。
住居の心配はない。
丸太小屋の材料はまわりにいくらでもある。
問題は食料だけだ。果たして吹雪が止むまで、貧弱な牛の肉だけで間に合うだろうか?。
間に合う筈はなかった。食料の消耗は思いのほか早く、このままでは隊の全滅は必至だ。
捨て身の救援隊が組織され吹雪の中を旅立つ。
しかし、二度に渡る救援隊は、遂に帰ってこなかった。
12月16日、最後の救援隊が山越えに挑んだ。
しかし、幸先はよくない。2日目に怖じ気づいた2名がキャンプに引き返してしまう。
そして、クリスマスの夜、荒れ狂う吹雪が彼らを襲った。
「もう食べるものは何もない。彼以外には.....」。
そう云って、エディはドランを指差す。
ドランは昨日から昏睡状態だった。
「なんてことを云うんだッ」。
そう云いながらも一行は、いざドランが死ぬと、これを平らげてしまった。
この吹雪の中で5名が死に、そして調理された。もちろん塩胡椒はない。調味料は彼らの涙だけだった。
年は明けて1847年1月1日、誰も死なないので、救援隊は食べるものに困ってしまった。
「おなかが空いた、死にそうだッ」。
空腹のフォスターは、先達を務める二人のインディアンを調理することを密かに提案する。
これにゾッとしたエディが彼らに忠告したため、新鮮な食材は逐電。
なにいッ、逃げたあッ?。
フォスターはエディの横っつらを張り倒し、ライフル片手に雪原を走る。
逃がすものかあああッ。
昔、「ぼく、食べる人」というCMがあったが、今のフォスターはこれ全身「たべる人」。その体力はどこにあったのか、瞬くうちに彼らに追いつく。
もうだめだあ。
精魂尽きて樹の根元に倒れ込む彼らの視界に入って来たのは、常軌を逸したフォスターの舌舐めずり。
間髪入れずにフォスターは二人の脳天を撃ち抜く。
この事件を契機に救援隊はフォスター組とエディ組に分裂する。
しかし皮肉なことに、生き残ったのはインディアンを喰って体力をつけたフォスター組であった。
1847年1月11日、フォスターたちはなんとか山を越え、よろめきながらサクラメントのジョンソン牧場に辿り着く。
彼らは半裸の上に顔は血まみれ、人を喰って生き存えていたことは誰の眼からも明らかだった。
フォスターたちの報告を受けて、直ちに救助隊が組織された。
しかし、冬の真只中。無事に全員を救出できる保証はなかった。
2月18日、救助隊はトラッキー湖畔に到着した。キャンプ地ではまだカニバリズムは行われていなかった。
しかし、状況は惨澹たるもので、いくつもの屍体が野ざらしにされていた。
衰弱した生存者たちには死者を埋葬するだけの体力が残っていなかったのだ。
不幸なことに、救助隊の食料も底を尽き始めていた。
木乃伊取りが木乃伊になるわけにはいかない。とりあえず、自力で山越えができる者だけを救出することにした。選ばれた24名は半死半生でサクラメントに辿り着いた。(うちの2名が途中で死亡)。
しかし、残された32名の運命はより悲劇的なものとなった。
救助隊は彼らに食料を残していくことが
出来なかったのである。
3月1日、第2救助隊が到達した。恐れていたことが現実のものとなっていた。
救助隊がまず見たものは雪原に横たわる骨格標本。
救助隊に近づく男は、悪びれるでもなく誰かさんの脚を腰からぶら下げていた。
この脚のかつての所有者はジョージ・ドナーの弟、ジェイブ・ドナー。
夫人は夫を食べることを拒否したが、子供たちには切り分けて食べさせていた。
救助隊の食料不足は前回と同様だった。
女子供を含めて14名だけが救出された。約半数だ。
しかし、彼らも救出されたと喜んではいられない。
激しい吹雪が襲い、食料はあっと云う間に底を尽いた。
7つになるメリー・ドナーが無邪気に云った。
「また死んだ人を食べなくちゃね」。
1時間もしないうちにグレーブス夫人が跡形もなくなった。
彼女はその乳飲み子が寝かされた横で解体された。
結局、11名が救助されたが、ショックのあまり自らの体験を語ることは出来なかった。
一方、トラッキー湖畔のキャンプでは、ジョージ・ドナーの家族を中心とする十数名が3回目の救助隊を待っていた。
さて、ここでルイス・ケスバーグが登場する。彼は完全に狂っていた。
しかし、ジョージ・ドナーが凍傷で死にかけている今となっては、彼が事実上のリーダーだった。
次の救助の到着まで、彼らは嫌でもケスバーグの指示に従わなければならなかった。
或る日、ケスバーグは4歳になるジョージ・フォスター(インディアン殺しの子)を自分の横に寝かせた。
翌朝、ジョージは冷たくなっていた。
誰もが殺人を疑ったが、ケスバーグは自然死を主張した。
そして、屍体を逆さまに吊るして、ナイフを研ぎながらこう云った。
「さあ、早く食べようぜ」。
3月13日、第3救助隊が到着した。生存者の半分が食べられていた。
ドナー夫人は重体の夫を残していくことを拒んだ。
結局、雪解けまでこの地に留まることとなった。
夫人一人では心配だからと、ケスバーグも残ることとなった。
彼を残すことが一番心配だったが、今回は食料を十分に残しておくことができたので、よもやそんなことはあるまいとたかを括っていた。
4月17日、最後の救助隊がこの呪われた地を訪れた。
生存者はケスバーグ一人だった。
「ドナー夫人は何処だ?」。
「そこにある」。
見ると、そこには大きな鍋二つに波々と血が満たされ、切り取ったばかりの肝臓がフライパンの上で調理されていた。
「残りは喰っちまった。これまで喰った中で、彼女が一番旨かった」。
ケスバーグの小屋を捜索すると、なんと、牛の肉も見つかった。
前回の救助隊が置いていった干し肉だ。ケスバーグは極限状態で夫人を喰ったわけではなかったのだ。
「どうもこの干し肉はパサパサで、俺の口には合わないんだ。人の肝臓や肺臓の方はよっぽど旨い。それに脳味噌ときたら、そりゃもう、スープにすると最高だぜ」。
呆れた救助隊はケスバーグを拷問にかける。しかし、彼はとうとう夫人の殺害を認めなかった。
それからの彼は、あのドナー隊の最も血塗られた生き残りとして、カリフォルニアの名物男となった。
彼は酔うと決まってドナー夫人のノロケ話(?)を始めた。
「柔らかい、いい女だったあ。俺はあの女から4ポンドもの脂肪を煮出したものさあ」。
1850年代初め、ケスバーグはステーキハウスを開店した。
宣伝文句に曰く、
「最上の柔らかい肉しか扱いません」