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都市伝説・・・奇憚・・・blog

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奥州藤原氏埋蔵金伝説

奥州藤原氏は前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。

長治2年(1105年)に清衡が本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立。
永久5年(1117年)に基衡が毛越寺を再興した。

その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。
毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったという。

天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。

平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山は以下の地である。大谷(宮城県気仙沼市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、玉山(岩手県陸前高田市)、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)。

(以上wikipediaより)

上記のように、当時の日本で1、2を争う平泉文化を支えた黄金が今でも平泉に埋蔵されている、というのが本伝説。

ちなみに、作家の高木彬光氏は、その著書「成吉思汗の秘密」で奥州藤原氏を支えた黄金はシベリア産ではないか、との論を展開している。

埋蔵金であるが、無量光院の西側に築かせた、金鶏山に眠る。
名前は山頂に金の鶏を埋めたことにちなむ。

伝説の金鶏を求めて1930年(昭和5年)に頂上付近が盗掘された際に、経塚であったことを示す銅製経筒や陶器の壺・甕などが掘り出されている。

埋蔵されたのは上記の金鶏(黄金作りの鶏二羽)、漆一万盃に黄金一億両といわれる。

現在は国の史跡に指定されているため発掘は難しい。


 




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源義経埋蔵金伝説

頼朝に追われ、奥州、北海道、はては大陸へ渡ったとの伝説、逸話に事欠かない悲運のヒーロー、源義経。
判間びいき、という言葉まで生まれた源平合戦の英雄である。

義経に関する伝説については他の研究サイトに譲る(―北海道にこんなにある義経伝説―あたりが面白い)として、今回は彼が残したといわれる埋蔵金について。

奥州で自刃し果てたといわれる義経であるが、その残党が北海道まで渡ったことは確実視されている。

長い間の逃避行の中で、その財産を埋蔵したと言われる箇所は少なくとも数箇所ある。

北海道恵庭市
恵庭岳の北面とする説と、ライマナイ川流域とする説がある。

北海道千歳市
北海道札幌市

神奈川県相模原市
頼朝に拒まれ、鎌倉入りできなかった時に持参金(奥州砂金)を埋めた、とされる。
「朝日が当たり、夕日がはえ、雀がちゅんちゅん鳴くところ、大釜いっぱい 鍋いっぱい」という言い伝えあり。



 




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デウス号埋蔵金

ちょっと表現としては「埋蔵金」という言葉が適切かどうかは微妙だが、今回紹介するのは海底に沈没した財宝である。

一般的に「デウス号埋蔵金」として知られるもの。

関係する人物は、戦国~安土桃山~江戸時代の大名、有馬晴信(1567-1612)。
1571年、兄の有馬義純が早世したため家督を継承。

家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、後にアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる鉛、硝石などの軍事物資の提供によって敵軍を斥けた事に感謝して1580年に洗礼を受けて「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持ち、以後は熱心なキリスト教徒となった。

1587年に豊臣秀吉の禁教令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。

文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍、渡海し、26歳から32歳までの7年間を朝鮮で過ごしている。

1600年、関ヶ原の合戦では当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。

ところが運命を暗転させる事件が起きる(岡本大八事件)。
1609年、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオの市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。

晴信はこれに怒って徳川家康に仇討ちの許可を求めた。
そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ペッソア(Andre Pessoa)がノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号(マーデレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。

ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した。
この事件の後、家康の股肱、本多正純の家臣であった岡本大八が、晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。

が、これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていた。
これが発覚し、家康は激怒。岡本大八は火あぶりになり、晴信もまた贈賄の罪をとわれて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。

(以上wikiより)

今回沈んでいる財宝というのは上記にあるマーデレ・デ・デウス号(以後デウス号と表記)が積んでいた財宝。

デウス号自体は単なる貿易船で、今回の入港もポルトガルが日本との貿易を行うためであり、船には金塊112kg、銀9750kgなど、数億円の財宝が積まれていたという。

徳川時代以降、数回にわけて引き上げが行われており、数百貫の財宝が引き上げられたが、未だ全貌は不明という。

場所は長崎県長崎市の長崎港付近。
いずれすべてが引き上げられるかもしれない。



 




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穴山梅雪埋蔵金

武田信玄にまつわる埋蔵金伝説は数多い。
それもそのはず、武田家の黒川金鉱から産出された金は戦略道路「棒道」の各所に軍資金として分散埋蔵されたからだ。

その作業を担当したのは信玄の姉の子で勝頼とは従兄弟の関係にある穴山梅雪だった。
勝頼との軋轢から離反を決意した梅雪は棒道の軍用金を独自に移し変えてしまった。

梅雪自身は土民に襲われ命を落とす。
このことが表に出てきたのは明治になってからで、偶然梅雪の子孫が古文書を発見。
そこに記された「隠し湯の湧きて流る 窟穴を、のぼりて指せや……」ではじまる秘文を解き、山梨県の南巨摩郡身延山付近という所まで特定した。

それによると、身延山から下部温泉、本栖湖、樹海を経て、「一枚岩の洞穴」という場所に埋められているということである。

埋蔵額は数千万~数億にものぼるという。


 




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帰雲城埋蔵金(帰雲城埋没金)

帰雲城(かえりくもじょう)は、今の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる城である。

帰雲城は内ヶ島氏の居城であった。
寛正年間に内ヶ島為氏により築城されたが天正13年11月29日(1586年1月18日)、天正大地震が起き帰雲山の山崩れで埋没。

城主の内ヶ島氏理ら一族は死んでしまい、内ヶ島氏は滅亡してしまった。
これはそのとき埋まったとされる埋蔵金伝説である。

なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。
保木脇に帰雲城址の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得られていない。

その額は現在の価値にして5,000億円~数兆円と言われている。

城の場所がはっきりしないとはいえ、白川村のおよそ1平方キロ内に確実に存在すると言われているため、発掘者が後をたたない。

「埋没・帰雲城調査会」という団体もあるほどであるが…今のところ見つかってはいない。


 




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