都市伝説・・・奇憚・・・blog
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☆☆気がつけば1億PV☆☆
野村義男
2007.10.05 (Fri) | Category : 都市伝説・考察・真相
さすがにそれでお金は稼げません(笑)
たのきんトリオが下火になり、それぞれ(近藤真彦、田原俊彦、野村義男)がソロ活動を開始。
もともと得意だったギターを生かして1983年に「The Good-Bye」を結成、『ザ・ベストテン』でも20位にランクインしました。
しかし1990年、「The Good-Bye」活動休止後、TV番組に無断出演したことがきっかけとなりじゃニーズ事務所を退社。
現在は主にギタリストとして、作曲・編曲・プロデューサーなども務める。フジテレビ系音楽バラエティー番組「LOVE LOVEあいしてる」にギタリストとしてレギュラー出演したほか、浜崎あゆみや世良公則のバックバンドでギタリストを務めている。
また、寺沢功一、宮脇知史(ZIGGYのドラマー)らと結成したバンドRIDER CHIPSに、ボーカルとしてローリー寺西、寺田恵子、m.c.A・T(富樫明生)、Ricky(元・DASEIN)らを招聘し、仮面ライダーシリーズの関連楽曲を発表、2004年には映画『仮面ライダー剣 MISSING ACE』への出演を果たした(詳細は RIDER CHIPSを参照のこと)。その他、三野姫(アコースティックギターによるユニット。with 渡辺英樹(元:CCB))、三喜屋野村モータース’S バンド(with 渡辺英樹、五十嵐公太(JUDY AND MARYのドラマー))等のバンドにも所属している。
単独での映画初主演作は1982年の「三等高校生」の他、東宝映画たのきんスーパーヒットシリーズとして「青春グラフィティ・スニーカーぶる~す」「ブルージーンズメモリー」「グッドラックLOVE」「ハイティーン・ブギ」「ウィーン物語・ジェミニYとS」「嵐を呼ぶ男」の6作品がある。
1995年「440Hz with <Band of joy>」のジャケットで共演した元人気AV女優の野坂なつみと結婚。2005年11月1日、第二子(女児)誕生。
福田洋也と共に和製エドワード・ヴァン・ヘイレンと言われることが多い。
…とまあ、細々と(失礼)活動を続けておられます。
たのきんトリオが下火になり、それぞれ(近藤真彦、田原俊彦、野村義男)がソロ活動を開始。
もともと得意だったギターを生かして1983年に「The Good-Bye」を結成、『ザ・ベストテン』でも20位にランクインしました。
しかし1990年、「The Good-Bye」活動休止後、TV番組に無断出演したことがきっかけとなりじゃニーズ事務所を退社。
現在は主にギタリストとして、作曲・編曲・プロデューサーなども務める。フジテレビ系音楽バラエティー番組「LOVE LOVEあいしてる」にギタリストとしてレギュラー出演したほか、浜崎あゆみや世良公則のバックバンドでギタリストを務めている。
また、寺沢功一、宮脇知史(ZIGGYのドラマー)らと結成したバンドRIDER CHIPSに、ボーカルとしてローリー寺西、寺田恵子、m.c.A・T(富樫明生)、Ricky(元・DASEIN)らを招聘し、仮面ライダーシリーズの関連楽曲を発表、2004年には映画『仮面ライダー剣 MISSING ACE』への出演を果たした(詳細は RIDER CHIPSを参照のこと)。その他、三野姫(アコースティックギターによるユニット。with 渡辺英樹(元:CCB))、三喜屋野村モータース’S バンド(with 渡辺英樹、五十嵐公太(JUDY AND MARYのドラマー))等のバンドにも所属している。
単独での映画初主演作は1982年の「三等高校生」の他、東宝映画たのきんスーパーヒットシリーズとして「青春グラフィティ・スニーカーぶる~す」「ブルージーンズメモリー」「グッドラックLOVE」「ハイティーン・ブギ」「ウィーン物語・ジェミニYとS」「嵐を呼ぶ男」の6作品がある。
1995年「440Hz with <Band of joy>」のジャケットで共演した元人気AV女優の野坂なつみと結婚。2005年11月1日、第二子(女児)誕生。
福田洋也と共に和製エドワード・ヴァン・ヘイレンと言われることが多い。
…とまあ、細々と(失礼)活動を続けておられます。
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岡田有紀子
2007.10.05 (Fri) | Category : 都市伝説・考察・真相
岡田有紀子の霊はなぜ夜ヒットのスタジオに現れたのか。
ある噂によると、それはこの時に中森明菜が歌っていた曲、「ジプシー・クイーン」のせいであるという。
「ジプシー・クイーン」はこのような歌詞から始まる。
百二十五頁(ページ)で 終わった二人
燃える愛の途中で Ah すべて
Wine色を染める 重い空に嘆き
アスファルトのBedに ため息こぼれる
なぜこの歌が岡田有希子と関係があるのだろうか。
歌詞を1行ずつ検証してみよう
1、百二十五頁(ページ)で 終わった二人
岡田有希子が飛び降りたのは4月8日の12時5分。
2、燃える愛の途中で Ah すべて
岡田有希子の自殺の原因は俳優の峰岸徹との破局といわれている。
3、Wine色を染める 重い空に嘆き
岡田有希子は飛び降りて(空に飛んで)、地面をWine色、つまり血の色に染めた。
4、アスファルトのBedに ため息こぼれる
岡田由希子はアスファルトの地面に激突し、アスファルトの上にうつぶせに寝転んで死んだ。
このように、よく見ていくとこの歌の歌詞は岡田有希子の死の状況に恐ろしいほど酷似している。
おそらくはこの自分の死を歌ったかのような歌詞に呼び寄せられ、岡田有紀子の霊は夜のヒットスタジオに現れてしまったのであろう。
なお、岡田有紀子の霊が出現したのは、中森明菜が「アスファルトのBed」まで歌った時であった。
自殺現場周辺には、衝撃で飛び散った彼女の脳が四散していた。
ところが警察が駆けつけたときには、飛び散っていたはずの脳みそはほとんど残っていなかったという。
噂によると事故直後、現場に駆けつけた彼女のファンたちが、彼女の脳みそを持ちかえってしまったらしい。
彼らは脳みそを持ちかえるとすぐに食べてしまったとも、今でも自宅で保管しているとも言われている。
さて、本題です。
岡田有希子の死の翌日、報知新聞に掲載された写真は実にショッキングでした。
うつぶせに倒れる彼女の髪の毛は血でべっとりと濡れており、周囲には大小様々なピンク色の塊が散らばっているのまでがはっきりと写っています。
これは彼女の脳みそです。
当時は写真週刊誌が次々と創刊され、人々の注目を集める為に競い合うように事故現場などに転がる死体写真を掲載していた時期でした。
岡田有希子の死体写真が報知新聞に堂々と掲載されたのも、そのような時代状況がなせる技です。
岡田有希子の幽霊騒動は、この1枚の写真から始まったといって良いでしょう。
確かに岡田有希子の死後、報知新聞社のカメラマンがサウナの中で灼熱した石に自ら突っ込むというかなり異様な状況で死に、岡田有希子の祟りではないかとする噂が流れたのは事実ですが、これを霊の祟りと考える根拠はありません。
というのは、「死体を蹴ってあお向けの写真を撮った」という伝説は全くのデタラメだからです。
カメラマンが報知新聞の記者とともに現場にやってきたのは、「岡田有希子が自殺未遂をした」という情報を聞きつけてのことでした。
実は岡田有希子は死の直前に南青山のマンションの自室で手首を切って自殺を図り、病院に運び込まれていました。
報知の記者らは事実関係を取材するためにサンミュージックへ向かい、そこでたまたま事務所へ戻ってきた岡田有希子の飛び降りに遭遇してしまったのです。
当初現場は混乱しており、飛び降りたのが誰かはわかりませんでした。
そのため報知の記者は岡田有希子の付き人が責任をとって飛び降りたのだと勘違いしてしまい、カメラマンに念のために写真を撮っておこうと指示しただけだったのです。
つまり、倒れているのが岡田有希子だと気づいていなかったカメラマンには、その死体を蹴ってまでしてあお向けの写真を撮る動機はなかったということになります。
それにいくら現場が混乱していたとはいえ、死体の側にはすぐに関係者の人だかりができてしまいましたから、カメラマンが遺体を蹴って動かす隙などなかったはずですしね。
これと同様の理由で脳みそがファンによって持ち帰られたという話も嘘であると考えられます。
彼女が飛び降りた直後ではそれが誰の死体なのかわからなかったし、それが判明した時点ではすでに警察が駆けつけており、脳みそを現場から盗み出すことなど不可能になっていたのですから。
しかも、このカメラマンが誰であるのかという点については、資料によって揺らぎがあります。
1996年に刊行された「東京ゴーストスポット(内藤孝宏、WAVE出版)」では、死んだカメラマンを岡田有希子の死体を撮影した人物と同一としているのですが、より古い記事であり、そもそものネタ元であると思われる「女性自身」1986年10月28日号に掲載された「自殺現場を撮ったあの新聞社に働きざかりの中高年の死が続々と!」という記事では、死んだカメラマンは巨人戦取材の為に上京していた大阪本社の人間であるとされているだけで、岡田有希子の死体写真を撮ったカメラマンと同一人物であるというような記述はどこにもありません。
また、「宝島」1997年11月26日号には、噂の真偽を確かめるために報知新聞社に確認の電話をしたところ、「(岡田有希子の死体写真を撮ったカメラマンは)生きて仕事してますよ」との返事が帰ってきたという話が掲載されています。
以上のことから考えると、もともと死んだカメラマンと死体を撮影したカメラマンは別人であったのに、それがいつの間にか都市伝説の中で同一人物とされ、メディアにも取り上げられて定説化したというのが真相のようです。
「夜のヒットスタジオ」に彼女の霊が映ったという話は有名です。
彼女は中森明菜が歌う後ろにワンピース姿で現れたといわれています。
ところが、実際にその問題の場面を検証してみると、確かに中森明菜の背後に人の姿に見える影かシミのようなものが映っていますが、ワンピース姿と断定できるほどはっきりと映っているわけではありませんし、ましてや岡田有希子かどうかなんて誰にもわかるはずがありません。
これはいわゆる心霊写真のようなもの、つまり光の陰影や壁のシミに人の顔を見つけているようなもので、このシミも偶然人形に見えるというだけのことでしょう。
(なお、「さんまのまんま」や「ベストテン」に現れた岡田有希子の姿というのはもっとひどくて、「見える人には見える」程度のものであったこともここに付記しておきます)
それが岡田有希子と断定されてしまうのは、一つには類話でご紹介したように中森明菜が歌っていた歌の歌詞の中に岡田有希子の死の状況と類似した個所があるため(実際に類似しているのはご紹介した冒頭の歌詞の部分だけです。これもただの偶然でしょう)。
そしてやはり、あのショッキングな写真が人々の頭から離れていなかったためだと思われます。
例の写真はその後写真週刊誌などにも転載され、多くの人々の目に触れることとなりました。
また、事件のあった当日は飛び降り直後の現場をすぐにワイドショーのカメラが取材し始め(これも岡田有希子自殺未遂の報を受けてやってきたための素早い到着であり、当初は死んでいるのが誰かはわかっていませんでした)、飛び散った脳みその映像がリアルタイムで全国のお茶の間に放送されていました。
このような現在では考えられない報道体制により、岡田有希子をめぐるショッキングな映像は多くの人々の頭に残ることになりました。
この人々の頭に残る残像が岡田有希子騒動を作り上げていったのです。
さて、ここまで私は霊の存在を完全否定する立場でこの文を書き進めてきました。
ここで少し視点を変えてこの騒動を振り返ってみましょう。
ここまで読んでこられた方は、私が「偶然」という言葉を多用していることに気づかれたかと思います。
「偶然」のカメラマンの死、「偶然」人形に見えた影、「偶然」の歌詞の類似・・・
さらに偶然は続きます。
1989年、幽霊騒動のもう一人の主役である中森明菜が岡田有希子と同じように手首を切り自殺未遂。
1997年、岡田有希子と親交があり、岡田有希子の写真集にツーショット写真も載ったことのある女優の可愛かずみが、岡田有希子と同じようにビルから飛び降りて自殺。
2000年、岡田有希子の芸能界における育ての親であったマネージャーの溝口伸郎氏が、岡田有希子の死んだサンミュージックのビルで謎の首吊り自殺・・・
もちろん岡田有希子の関係者が全員亡くなったわけではありませんから、これらは全て「偶然」とかたづけることもできます。
判断は皆さんにお任せしましょう。
ある噂によると、それはこの時に中森明菜が歌っていた曲、「ジプシー・クイーン」のせいであるという。
「ジプシー・クイーン」はこのような歌詞から始まる。
百二十五頁(ページ)で 終わった二人
燃える愛の途中で Ah すべて
Wine色を染める 重い空に嘆き
アスファルトのBedに ため息こぼれる
なぜこの歌が岡田有希子と関係があるのだろうか。
歌詞を1行ずつ検証してみよう
1、百二十五頁(ページ)で 終わった二人
岡田有希子が飛び降りたのは4月8日の12時5分。
2、燃える愛の途中で Ah すべて
岡田有希子の自殺の原因は俳優の峰岸徹との破局といわれている。
3、Wine色を染める 重い空に嘆き
岡田有希子は飛び降りて(空に飛んで)、地面をWine色、つまり血の色に染めた。
4、アスファルトのBedに ため息こぼれる
岡田由希子はアスファルトの地面に激突し、アスファルトの上にうつぶせに寝転んで死んだ。
このように、よく見ていくとこの歌の歌詞は岡田有希子の死の状況に恐ろしいほど酷似している。
おそらくはこの自分の死を歌ったかのような歌詞に呼び寄せられ、岡田有紀子の霊は夜のヒットスタジオに現れてしまったのであろう。
なお、岡田有紀子の霊が出現したのは、中森明菜が「アスファルトのBed」まで歌った時であった。
自殺現場周辺には、衝撃で飛び散った彼女の脳が四散していた。
ところが警察が駆けつけたときには、飛び散っていたはずの脳みそはほとんど残っていなかったという。
噂によると事故直後、現場に駆けつけた彼女のファンたちが、彼女の脳みそを持ちかえってしまったらしい。
彼らは脳みそを持ちかえるとすぐに食べてしまったとも、今でも自宅で保管しているとも言われている。
さて、本題です。
岡田有希子の死の翌日、報知新聞に掲載された写真は実にショッキングでした。
うつぶせに倒れる彼女の髪の毛は血でべっとりと濡れており、周囲には大小様々なピンク色の塊が散らばっているのまでがはっきりと写っています。
これは彼女の脳みそです。
当時は写真週刊誌が次々と創刊され、人々の注目を集める為に競い合うように事故現場などに転がる死体写真を掲載していた時期でした。
岡田有希子の死体写真が報知新聞に堂々と掲載されたのも、そのような時代状況がなせる技です。
岡田有希子の幽霊騒動は、この1枚の写真から始まったといって良いでしょう。
確かに岡田有希子の死後、報知新聞社のカメラマンがサウナの中で灼熱した石に自ら突っ込むというかなり異様な状況で死に、岡田有希子の祟りではないかとする噂が流れたのは事実ですが、これを霊の祟りと考える根拠はありません。
というのは、「死体を蹴ってあお向けの写真を撮った」という伝説は全くのデタラメだからです。
カメラマンが報知新聞の記者とともに現場にやってきたのは、「岡田有希子が自殺未遂をした」という情報を聞きつけてのことでした。
実は岡田有希子は死の直前に南青山のマンションの自室で手首を切って自殺を図り、病院に運び込まれていました。
報知の記者らは事実関係を取材するためにサンミュージックへ向かい、そこでたまたま事務所へ戻ってきた岡田有希子の飛び降りに遭遇してしまったのです。
当初現場は混乱しており、飛び降りたのが誰かはわかりませんでした。
そのため報知の記者は岡田有希子の付き人が責任をとって飛び降りたのだと勘違いしてしまい、カメラマンに念のために写真を撮っておこうと指示しただけだったのです。
つまり、倒れているのが岡田有希子だと気づいていなかったカメラマンには、その死体を蹴ってまでしてあお向けの写真を撮る動機はなかったということになります。
それにいくら現場が混乱していたとはいえ、死体の側にはすぐに関係者の人だかりができてしまいましたから、カメラマンが遺体を蹴って動かす隙などなかったはずですしね。
これと同様の理由で脳みそがファンによって持ち帰られたという話も嘘であると考えられます。
彼女が飛び降りた直後ではそれが誰の死体なのかわからなかったし、それが判明した時点ではすでに警察が駆けつけており、脳みそを現場から盗み出すことなど不可能になっていたのですから。
しかも、このカメラマンが誰であるのかという点については、資料によって揺らぎがあります。
1996年に刊行された「東京ゴーストスポット(内藤孝宏、WAVE出版)」では、死んだカメラマンを岡田有希子の死体を撮影した人物と同一としているのですが、より古い記事であり、そもそものネタ元であると思われる「女性自身」1986年10月28日号に掲載された「自殺現場を撮ったあの新聞社に働きざかりの中高年の死が続々と!」という記事では、死んだカメラマンは巨人戦取材の為に上京していた大阪本社の人間であるとされているだけで、岡田有希子の死体写真を撮ったカメラマンと同一人物であるというような記述はどこにもありません。
また、「宝島」1997年11月26日号には、噂の真偽を確かめるために報知新聞社に確認の電話をしたところ、「(岡田有希子の死体写真を撮ったカメラマンは)生きて仕事してますよ」との返事が帰ってきたという話が掲載されています。
以上のことから考えると、もともと死んだカメラマンと死体を撮影したカメラマンは別人であったのに、それがいつの間にか都市伝説の中で同一人物とされ、メディアにも取り上げられて定説化したというのが真相のようです。
「夜のヒットスタジオ」に彼女の霊が映ったという話は有名です。
彼女は中森明菜が歌う後ろにワンピース姿で現れたといわれています。
ところが、実際にその問題の場面を検証してみると、確かに中森明菜の背後に人の姿に見える影かシミのようなものが映っていますが、ワンピース姿と断定できるほどはっきりと映っているわけではありませんし、ましてや岡田有希子かどうかなんて誰にもわかるはずがありません。
これはいわゆる心霊写真のようなもの、つまり光の陰影や壁のシミに人の顔を見つけているようなもので、このシミも偶然人形に見えるというだけのことでしょう。
(なお、「さんまのまんま」や「ベストテン」に現れた岡田有希子の姿というのはもっとひどくて、「見える人には見える」程度のものであったこともここに付記しておきます)
それが岡田有希子と断定されてしまうのは、一つには類話でご紹介したように中森明菜が歌っていた歌の歌詞の中に岡田有希子の死の状況と類似した個所があるため(実際に類似しているのはご紹介した冒頭の歌詞の部分だけです。これもただの偶然でしょう)。
そしてやはり、あのショッキングな写真が人々の頭から離れていなかったためだと思われます。
例の写真はその後写真週刊誌などにも転載され、多くの人々の目に触れることとなりました。
また、事件のあった当日は飛び降り直後の現場をすぐにワイドショーのカメラが取材し始め(これも岡田有希子自殺未遂の報を受けてやってきたための素早い到着であり、当初は死んでいるのが誰かはわかっていませんでした)、飛び散った脳みその映像がリアルタイムで全国のお茶の間に放送されていました。
このような現在では考えられない報道体制により、岡田有希子をめぐるショッキングな映像は多くの人々の頭に残ることになりました。
この人々の頭に残る残像が岡田有希子騒動を作り上げていったのです。
さて、ここまで私は霊の存在を完全否定する立場でこの文を書き進めてきました。
ここで少し視点を変えてこの騒動を振り返ってみましょう。
ここまで読んでこられた方は、私が「偶然」という言葉を多用していることに気づかれたかと思います。
「偶然」のカメラマンの死、「偶然」人形に見えた影、「偶然」の歌詞の類似・・・
さらに偶然は続きます。
1989年、幽霊騒動のもう一人の主役である中森明菜が岡田有希子と同じように手首を切り自殺未遂。
1997年、岡田有希子と親交があり、岡田有希子の写真集にツーショット写真も載ったことのある女優の可愛かずみが、岡田有希子と同じようにビルから飛び降りて自殺。
2000年、岡田有希子の芸能界における育ての親であったマネージャーの溝口伸郎氏が、岡田有希子の死んだサンミュージックのビルで謎の首吊り自殺・・・
もちろん岡田有希子の関係者が全員亡くなったわけではありませんから、これらは全て「偶然」とかたづけることもできます。
判断は皆さんにお任せしましょう。
ポール・マッカートニー
2007.10.04 (Thu) | Category : 都市伝説・考察・真相
「ポール死亡説」とは1969年にアメリカ合衆国イリノイ州立大学の学生新聞「ノーザン・スター」(同年9月23日付)にある記事「ポールは1967年1月に自動車事故で死亡している。今いるポールは替え玉だ」というガセ記事を端に発し広まった都市伝説のひとつだが、その年までに発売されたビートルズのアルバムや楽曲に「証拠」としてこじつけの出来る箇所が数多く見つかった結果、多くの人に信じられてしまった。代表的な例は以下の通り。
シングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」
終わり間際に聞こえる呟きが「I buried Paul(僕はポールを埋葬した)」と聞こえる。(曲を作ったジョン・レノンによるとこれは「Cranberry Sause (クランベリー・ソース)」と言っているとのことであったが、1995年に発売された「アンソロジー2」収録のバージョンで、本当に「Cranberry Sause (クランベリー・ソース)」と言っているのがはっきり聴き取れる。)
アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
表ジャケットの花で形作られたギターは左利き用(ポールは左利き)で、弦を表す松葉が4本ある事から「ポールのベースギター」と推測され、このジャケット写真自体がポールの葬儀を暗示している。
表ジャケットでポールの頭上に手がかざされているが、これはインドで死のサインを表す。(マフィアのサインという説もある)
ジャケット見開き(CDでは9ページ)のポールの腕にワッペンを付けられていて、そのワッペンには“O.P.D.”と書いてある。これは“Officially Pronounced Dead”(正式に死を宣告)の略。(これはカナダで買った、O.P.P.のワッペンで“Ontario Provincial Police”の略)
裏ジャケの写真でポールだけが背中を向け、体型が違う。また、頭上に「without you」の文字がある。(この写真撮影の際ポールはアメリカに滞在しており、ビートルズのロード・マネージャーであるマル・エヴァンスが代役を務めたため背中を向けている、と言われている)
収録曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」で自動車事故が取り上げられるが、この事故を起こしたのはポールである。
一番最後で聞ける、通称「Inner Groove(《レコードの》内側の溝 の意)」を逆回転させると「Paul will be back as superman」と聞こえる。これは暗にポールが死亡していることを表している。
EP(アメリカではアルバム)及びTV映画「マジカル・ミステリー・ツアー」
ジャケット及び同映画での「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のシーンでメンバー4人が被り物をして登場するが、次のアルバム「ホワイト・アルバム」の「グラス・オニオン」の歌詞によると、ウォルラスに扮していたのはポールであり、これは「ポールが死んだ」という証明。(実際にウォルラスに扮していたのはジョン)
映画のワンシーン(ヴィクター・スピネッティが軍曹に扮し出演するシーン)および同シーンを撮影したEPのインナー写真において、ポールの前に「I was」の看板(?)があるが、これは既にポールが故人であることを示している。
映画のラスト「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のシーンで、ポールだけが胸に黒薔薇をさしており、これは死者を表す。(これは赤いバラが売り切れていたからである。)
アルバム「ザ・ビートルズ」(通称ホワイト・アルバム)
収録曲「アイム・ソー・タイアード」の小さな声を逆回転すると“Turn me on, dead man”(私を刺激てしくれ、死人よ)と“Paul is dead. Miss him. Miss him. Miss him.(さびしい…ポールがいなくて…)”と言っている。死人とはポールの事。
収録曲「レボリューション9」の冒頭の「Number Nine」の声を逆回転して聞くと「Turn me on,dead man」と聞こえる。
アルバム「イエロー・サブマリン」
表ジャケットでポールの頭上に手がかざされているが、これは死者を表す。
アルバム「アビー・ロード」
表ジャケットの写真でポールのみ裸足であり、これは死者を意味する。(同日に撮られた別の写真ではサンダルを履いている)
表ジャケットの写真で、ポールのみが右脚を前に出しており(他の3人は左脚)、ポールが遊離して見える。(これは目立ちたがり屋のポールの発想という説がある)
表ジャケットの写真で、本来左利きのポールが右手にタバコを持っており、これはポールが替え玉である証拠である。(これも目立ちたがり屋のポールの発想という説がある。また、ジャケット写真のような構図では左手にタバコを持っても隠れてしまうため、右手に持つのはやむを得ない措置とも言える)
表ジャケットの写真で、後方に写っているワーゲンのナンバー・プレート「28IF」は「もし(IF)ポールが生きていたら28才だ」とのメッセージである。(実際には「281F」であり、またこの当時ポールは27才だった。これに対して「東洋思想に傾倒していたビートルズは「数え年」を使用していた」との反論まであった。胎児の頃を勘定に入れたとの反論があったともいわれる)
表ジャケットの写真はポールの葬列を意味していて、ジョンは神父、リンゴは葬儀屋、ポールは死体、ジョージは墓堀り人を表している。
表ジャケットの写真で、ポールが目をつぶって歩いている。
裏ジャケットの写真の「THE BEATLES」と書かれたタイルにひびが入っており、グループの分裂を暗示している。
収録曲「カム・トゥゲザー」で、ザ・ビートルズは4人なのに“one and one and one is three”と言っている。
「ポール死亡説」が広まった当初、本人は無視を決め込んでいたがあまりにも広がるのが早かったせいでついに自らがアメリカの雑誌、ライフ誌のインタビューに応じ「こんなのはバカげている。僕が死んだ死なないという暇があったらもっとほかにやるべきことがある。それをやるべきだ。」という声明を発表。これによりピリオドが打たれた。
なお、この噂の本当の発信源はビートルズ自身で「ジョークとして」あるいは「噂がどのように世間に広まって行くかの実験として」意図的に流されたものだ、という説を唱える者もいる。
だいたい、隠してるはずなのにメッセージを暗号として発信する必要がどこにあるのか、疑問である。
シングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」
終わり間際に聞こえる呟きが「I buried Paul(僕はポールを埋葬した)」と聞こえる。(曲を作ったジョン・レノンによるとこれは「Cranberry Sause (クランベリー・ソース)」と言っているとのことであったが、1995年に発売された「アンソロジー2」収録のバージョンで、本当に「Cranberry Sause (クランベリー・ソース)」と言っているのがはっきり聴き取れる。)
アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
表ジャケットの花で形作られたギターは左利き用(ポールは左利き)で、弦を表す松葉が4本ある事から「ポールのベースギター」と推測され、このジャケット写真自体がポールの葬儀を暗示している。
表ジャケットでポールの頭上に手がかざされているが、これはインドで死のサインを表す。(マフィアのサインという説もある)
ジャケット見開き(CDでは9ページ)のポールの腕にワッペンを付けられていて、そのワッペンには“O.P.D.”と書いてある。これは“Officially Pronounced Dead”(正式に死を宣告)の略。(これはカナダで買った、O.P.P.のワッペンで“Ontario Provincial Police”の略)
裏ジャケの写真でポールだけが背中を向け、体型が違う。また、頭上に「without you」の文字がある。(この写真撮影の際ポールはアメリカに滞在しており、ビートルズのロード・マネージャーであるマル・エヴァンスが代役を務めたため背中を向けている、と言われている)
収録曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」で自動車事故が取り上げられるが、この事故を起こしたのはポールである。
一番最後で聞ける、通称「Inner Groove(《レコードの》内側の溝 の意)」を逆回転させると「Paul will be back as superman」と聞こえる。これは暗にポールが死亡していることを表している。
EP(アメリカではアルバム)及びTV映画「マジカル・ミステリー・ツアー」
ジャケット及び同映画での「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のシーンでメンバー4人が被り物をして登場するが、次のアルバム「ホワイト・アルバム」の「グラス・オニオン」の歌詞によると、ウォルラスに扮していたのはポールであり、これは「ポールが死んだ」という証明。(実際にウォルラスに扮していたのはジョン)
映画のワンシーン(ヴィクター・スピネッティが軍曹に扮し出演するシーン)および同シーンを撮影したEPのインナー写真において、ポールの前に「I was」の看板(?)があるが、これは既にポールが故人であることを示している。
映画のラスト「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のシーンで、ポールだけが胸に黒薔薇をさしており、これは死者を表す。(これは赤いバラが売り切れていたからである。)
アルバム「ザ・ビートルズ」(通称ホワイト・アルバム)
収録曲「アイム・ソー・タイアード」の小さな声を逆回転すると“Turn me on, dead man”(私を刺激てしくれ、死人よ)と“Paul is dead. Miss him. Miss him. Miss him.(さびしい…ポールがいなくて…)”と言っている。死人とはポールの事。
収録曲「レボリューション9」の冒頭の「Number Nine」の声を逆回転して聞くと「Turn me on,dead man」と聞こえる。
アルバム「イエロー・サブマリン」
表ジャケットでポールの頭上に手がかざされているが、これは死者を表す。
アルバム「アビー・ロード」
表ジャケットの写真でポールのみ裸足であり、これは死者を意味する。(同日に撮られた別の写真ではサンダルを履いている)
表ジャケットの写真で、ポールのみが右脚を前に出しており(他の3人は左脚)、ポールが遊離して見える。(これは目立ちたがり屋のポールの発想という説がある)
表ジャケットの写真で、本来左利きのポールが右手にタバコを持っており、これはポールが替え玉である証拠である。(これも目立ちたがり屋のポールの発想という説がある。また、ジャケット写真のような構図では左手にタバコを持っても隠れてしまうため、右手に持つのはやむを得ない措置とも言える)
表ジャケットの写真で、後方に写っているワーゲンのナンバー・プレート「28IF」は「もし(IF)ポールが生きていたら28才だ」とのメッセージである。(実際には「281F」であり、またこの当時ポールは27才だった。これに対して「東洋思想に傾倒していたビートルズは「数え年」を使用していた」との反論まであった。胎児の頃を勘定に入れたとの反論があったともいわれる)
表ジャケットの写真はポールの葬列を意味していて、ジョンは神父、リンゴは葬儀屋、ポールは死体、ジョージは墓堀り人を表している。
表ジャケットの写真で、ポールが目をつぶって歩いている。
裏ジャケットの写真の「THE BEATLES」と書かれたタイルにひびが入っており、グループの分裂を暗示している。
収録曲「カム・トゥゲザー」で、ザ・ビートルズは4人なのに“one and one and one is three”と言っている。
「ポール死亡説」が広まった当初、本人は無視を決め込んでいたがあまりにも広がるのが早かったせいでついに自らがアメリカの雑誌、ライフ誌のインタビューに応じ「こんなのはバカげている。僕が死んだ死なないという暇があったらもっとほかにやるべきことがある。それをやるべきだ。」という声明を発表。これによりピリオドが打たれた。
なお、この噂の本当の発信源はビートルズ自身で「ジョークとして」あるいは「噂がどのように世間に広まって行くかの実験として」意図的に流されたものだ、という説を唱える者もいる。
だいたい、隠してるはずなのにメッセージを暗号として発信する必要がどこにあるのか、疑問である。
志村けん
2007.10.04 (Thu) | Category : 都市伝説・考察・真相
「志村けん死亡説」は
①噂が流れる直前の夏、ゴルフ場で軽い脱水症状を起こした
②ゴールデンタイムでの志村けんの番組が終わったこと。
③都内で同姓同名の老人が亡くなり、新聞のお悔やみ欄に載っていたこと。
これらが重なり、志村けんの故郷、東京都東村山市の女子高生の間から広まった、といわれている。
最初は「死亡か?」という程度だったがだんだんエスカレートして前述の都市伝説が出来上がった。
がんセンターが「入院していない」という異例の声明をだし、本人も記者会見するほどの騒ぎとなった。
彼を尊敬する芸能人(沢田研二、松本人志、ダチョウ倶楽部など)も否定するコメントを出している。
加藤茶にはコントのネタにされている。
①噂が流れる直前の夏、ゴルフ場で軽い脱水症状を起こした
②ゴールデンタイムでの志村けんの番組が終わったこと。
③都内で同姓同名の老人が亡くなり、新聞のお悔やみ欄に載っていたこと。
これらが重なり、志村けんの故郷、東京都東村山市の女子高生の間から広まった、といわれている。
最初は「死亡か?」という程度だったがだんだんエスカレートして前述の都市伝説が出来上がった。
がんセンターが「入院していない」という異例の声明をだし、本人も記者会見するほどの騒ぎとなった。
彼を尊敬する芸能人(沢田研二、松本人志、ダチョウ倶楽部など)も否定するコメントを出している。
加藤茶にはコントのネタにされている。
マリリン・モンロー(1)
2007.10.04 (Thu) | Category : 都市伝説・考察・真相
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